第8回 明治時代・後期の白髪染(その2)

1.はじめに

前回報告した明治後期の白髪染文献は、前期の啓蒙的な内容から多くの進歩した点が見られました。それは海外経験のある美容師や評論家からの紹介や批評が大きな影響を与えていました。白髪染が一般に普及し、使用方法を誤った事故の発生と、さらに新規の酸化染料による「安全性の問題」が背景にあります。今回は特に安全性問題を中心に解説していきます。

安全性の問題

2.文献における安全性問題について

前期と比べ、後期の文献では「安全性」に関する内容に関するものが非常に多く出ています。その著者の意見を分けると大きく3つに集約されます。

(1)白髪染は腐食性の薬剤を含むので危険であるとの意見。

この指摘は主に明治時代を通して発売されてきた、「金属染毛剤」に対してです。

金属染毛剤の主な成分には鉛と生石灰のような腐食性のアルカリ剤が含まれており、取り扱いを誤ると皮膚や毛髪にダメージを与えます。薬剤や化学物質に不慣れな一般人には危険な原料であるとの指摘です。

(文献例)欧米最新美容法、美容術、美顔と化粧、新化粧など

(2)市販品は危険であるとの意見。

市販の白髪染が登場するのは明治15年ごろですが、それまでは主に理容店で染めていたようです。専門の訓練を受けた技術者が染めることが安全であるとの考えです。

市販品は危険である

(文献例)美顔術独習、新式化粧法、西洋理髪法など

(3)酸化染毛剤の問題点についての指摘。

北原十三男は「自ら施し得る美顔法」の中で、市販の白髪染で酸化染料のパラフェニーレンヂアミンが含まれているかどうかの確認方法として、皮膚でのパッチテストを提案しています。当時の資料の中では非常に進んだ提案です。

こうした文献は主に理美容関係者からの意見ですが、白髪染に関して薬学、医学関係の文献も明治末期から登場してきます。その中で分かりやすい内容の文献を紹介します。

    明治時代の安全性文献一覧  
雑誌名 執筆者 タイトル
明治21年 北越医会会報     白髪ノ黒キニカヘレル事
明治42年 成医会雑誌 第326号 湯浅 要作 坊間流行する白髪染に就て
  成医会雑誌 第329号 湯浅 要作 再ビ坊間ニ流行ノ白髪染ニ就テ
  皮膚科及泌尿器科雑誌 第9巻 石津 利作 諸種ノ白髪染薬ニ就テ
明治44年 衛生新報 第9巻 衛生新報社 有害なる白髪染
  皮膚科及泌尿器科雑誌 第11巻 庄司 勝 湿疹ト染髪
明治45年 千葉医学専門学校校友会雑誌 第57,59 小磯勝次郎 染髪剤に就て
  眼科臨床医報 第7巻 堤 友久 注意すべき中毒性眼患の二例

 

(4)石津利作「諸種ノ白髪染薬ニ就テ」(皮膚科及泌尿器科雑誌 明治42年)

ⅰ 石津利作について

石津製薬(大阪)の創業者の次男として生まれ、東京大学の薬学部を卒業、内務省衛生試験所の技師として、製品分析を行う。三朝温泉のラジウム(ラドン)を測定したことでも有名。

上記の文献に先立ち、衛生試験彙報第13号(明治41年)の「市中販売毛染剤試験報告」には、 

16種の白髪染分析、毛髪試験から外国の安全性報告、更に国内での事故例などがまとめられています。

「諸種ノ・・・」はそれらの分析結果を踏まえ、国内白髪染の現状をしるしたもので、上記彙報と併せて読むと、当時の白髪染の問題点やその後の展開が理解できると思います。

衛生試験彙報第13号(明治41年)

ⅱ 明治時代に白髪染が普及した原因とは

石津によれば「社会に出て働く女性、人と接する機会が増えた男性の容貌の粧飾がさかんになった」ことが原因としています。

明治初期の「断髪令」「お歯黒禁止令」を含め生活、文化が大きく変革した時期であり、外見を気にする社会が背景にあったのではと思います。

明治中頃の女流作家、北田薄氷(きただ うすらい)の作品である「白髪染」には、当時の髪を染めることに対する考え方を描いています。

北田薄氷(きただ うすらい)「白髪染」

 

〇 白髪染薬の良否判定法

分析官でもある石津は、白髪染に対しての以下のような判定基準を持っていたようです。

1.よく染まること

2.水洗いに対する堅牢性

3.摩擦に対する堅牢性

4.日光に対する堅牢性

5.使い方が簡便であること

これらの性能以外に白髪染を使っていることがわからない、すなわち「染めたと気づかれない」点を挙げています。この言葉はのちの白髪染広告のキャッチに使われています。

 

〇 白髪染の問題点

明治38年(1905)以降、酸化染料(パラフェニーレンヂアミン)はドイツでは販売禁止となりましたが、日本では取締すらできておらず、また試験したものもいない状況でした。ところが、その白髪染薬が発売されると一挙に広まりました。更に無許可なものも横行し、そのため「新たな白髪染による事故」が発生することとなりました。

酸化染料の法的な位置、製品の購入方法などの安全性に対する不明な状態が5年ほど存在しました。

 

3.法規制について

 ・発端

文献にも事故例が収集されていますが、一般新聞にかぶれ事故の記事(明治42年11月 朝日新聞)が掲載されたことが、法規制への流れの発端となったようです。

一般新聞にかぶれ事故の記事(明治42年11月 朝日新聞)

 

 ・明治43年12月の報知新聞記事

明治38年、当時国内では実績のない「パラフェニーレンヂアミン」を使った白髪染が発売されました。それまでの金属染毛剤にない性能と手軽さにより、瞬く間に全国に広がったようです。更に、簡単な組成のため多くの類似品が登場、一部には無許可のものもあったようです。

その結果、多くのかぶれ事故が発生しました。

白髪染の歴史の中で、新聞に大きく取り上げられた最初の記事、「不法薬品検挙、白髪染取締」がでて、各地で販売禁止が起こります。しかし、地域によって取締りの差があり、地方ではそのまま販売が続けられたところもあったようです。

ちょっと長いのですが、明治43年の報知新聞記事全文を載せますのでご覧ください。

明治43年12月21日

東京 報知新聞

不良薬品の検挙 白髪染薬品の取締」

近来白髪染の化粧法男女の間に流行し美顔術あるいは理髪床等の副業とし白髪染剤の売行盛んなるが是等は多く其筋の許可を経たるものなれど近く其筋にて薬品精査の結果著しき害毒を発見するに至れるは極めて注意すべき事柄なり元来白髪染剤は早くより我国にて行はれしものは完全に染色せざりしに数年前欧州にて発売されし薬品「パラフェニーレンジアミン」を原料とせる一種の薬剤は染色確実なるより非常の好評を博し以来我邦にてもこれに倣ひたる白髪染を製し売薬部外品とし其筋の手続きを経て製造販売の権利を既得せるもの七人に及び当時は在来品に勝る新剤として喝采を得つつありしも少時にして欧米において先づ該品の有害なるを発見し直ちに発売を禁じ次いで我邦にもまた該品の使用者に中毒頻々たるを発見し取敢へず警視庁は昨年来新たなる製造販売の出願を許可せず各警察をして化粧品店、理髪店等に就て諸種の白髪染剤を徴発し長島技師をして試験せしめしに孰れも「パラフェニーレンジアミン」を原料とせる有害品なること的確となり且つ徴発せる売品中多数の潜り品をも発見され是等は近く取締規則違反とし告発せらるるべく又一方発売を許可されたるものと雖も其儘放置すべからざれば化粧品研究会に向て是に替るべき無害品を案出するにあらざれば断然従来の白髪染を禁止すべしと警告を與へしが研究会は荏苒(じんぜん)今日に至るも良剤を提出せざるより或は近く一般流行の白髪染も使用を禁止さるゝに至るべく尚ほ該剤に因る中毒の兆は初め染料の毛髪に染み込みし際一種の瓦斯を発散し此の瓦斯が皮膚に触れて其人の体質に依り或は焮衝(きんしょう:炎症)を起し或は湿疹を生ずる等の症状を呈するものなりといふ。

 ・医学者の見解

白髪染の使用法に関して眼科医の見解をまとめたものがありますので紹介します。

瀬木本雄 「毛髪薬(白髪染)ノ有害作用ニ就て」(日本眼科学会誌 大正11年)

白髪染を安全に使用する方法の提案

1.医学或いは薬学の知識経験を有する人に、専用場所で染毛してもらう。

2.被染者は仰向けで薬液がタレるのを防ぐ、生え際或いは頭皮全体にワセリンを塗布、目には保護眼鏡を着用する。

3.初めは極めて薄い使用するか、一部分を毛染し経過を観察、特異体質の有無を見る。

この提案内容は、専門の理美容師の仕事に当てはまると思います。大正時代になると、特に美容が発展するようになり、白髪染もメニューに登場してきます。

 ・明治45年、毒物劇物取扱規則改正

そこで国の対応ですが、法律改正を行い、白髪染主剤のパラフェニーレンヂアミンを毒物劇物に指定しました。当時、毒劇物を含む製品の購入には、官公署の証明書と、氏名・捺印が必要でしたが、白髪染のことを考慮してか、「家事用であれば証明書が不要」との文言が加わりました。これによりパラフェニーレンヂアミンを含む白髪染は「氏名・捺印のみ」での購入が可能となりました。

家事用であれば証明書が不要

 

 ・安全性への対応

法律改正後、白髪染各社はいろいろな対応をおこなったようです。

〇 新たに警察庁への申請許可を得る

中身は以前と同じ処方で、許可だけを新たに取得することもあったようです

許可だけを新たに取得

〇 改良製品を発売する

大正2年の広告に、最近発見された「千代ぬれ羽」が登場しています。

千代ぬれ羽 広告

〇 酸化染料を使用しない製品を発売する。

安全性の面では最も良い対応ですが、市場ではあまり受け入れられなかったようで、「千代ぬれ羽」 はすぐに従来品の再発売を行いました。

千代ぬれ羽 再発売

法改正を経て、酸化染料(パラフェニーレンヂアミン)はその位置を獲得しましたが、報知新聞にもあるような、染料自体の安全性の改良はなされませんでした。そのため、安全染毛剤の開発、使用上の注意が戦後まで続きます。

 

4.技術開発

明治38年に登場した酸化染毛剤でしたが、その原料は輸入に頼っていました。その後染料、過酸化水素の国産化がすすみ、大正期には白髪染を輸出するまでになりました。更に白髪染に関する特許の数も増えていきました。

(1)特許について

明治末期の特許3件を紹介します。第7回の「ナイス」の項目で書きましたが、発明者の深澤儀作は、敢えて「公知」にすることで、後から特許が出てきても問題なく使用できるようにと考えたのではと思います。

1.特許第23765号 「染毛剤製造法」(大正元年出願)

ナイスを作った深澤儀作の特許で、ブドウ糖を加えることで刺激を低減することを目指しています。ただ、酸化剤には過酸化水素を用いていません。

2.特許第23782号 「白髪毛染剤製造法」(明治45年出願)

皮膚刺激のない安全な毛染剤

3.特許第25838号 「石崎式白髪染」(大正二年出願)

上記と同じ発明者、石崎久作が皮膚刺激のない黒色染毛剤として提案しています。

この中で、過酸化水素との組み合わせを示しており、特許で過酸化水素が登場する初めてのものと思われます。

 

(2)過酸化水素

それまではドイツから輸入していましたが、大正3年に三共株式会社が国産化し発売しました。ただ、当初の製品は、安定剤が不十分で、「るり羽」をインドに輸出する際に、船積みのガラス瓶のフタが赤道通過時に全部飛んだといった記録もあります。

オキシフル

 

(3)海外輸出について

 ・ナイスの場合

丹平製薬70年史によれば、「ナイスは大正の頃より大々的に拡売され、大正の末期から昭和の初期にかけてはナイスの全盛期を作り上げ、満州事変(昭和6年)後には中国輸出が急上昇した。ナイスはのりを用いないので毛皮染にも重宝するためであった。」とあります。この期間の販売推移を示します。

 

ナイス販売金額比推移 (昭和12~18年)

   
昭和12 昭和13 昭和14 昭和15 昭和16 昭和17 昭和18
100 121 96 92.4 126 112 64.1
             
昭和12年:18395円          

 

 ・千代ぬれ羽の場合

千代ぬれ羽もナイスと同様に中国に進出していたようで、戦前の外務省の記録にありました。

「斉斉哈爾(チチハル、中国黒竜江省の都市)に於ける日本売薬情況」によれば、大正三年の当地日本売薬年間輸入総額は12500円で、仁丹が4000円、胃腸薬、目薬と続き、毛染薬として千代ぬれ羽、ナイスの名前が挙がっており、250円(2%)を占めていました。当時は日本の薬とともに海外へ白髪染も進出していたことがわかります。

日本売薬情況

<コラム3>白髪染産業は有望? ~福澤桃介白髪染を研究す~

江戸期から始まった白髪染も、明治前期までは海外からの輸入が占めていました。ところが明治後期になると、「千代ぬれ羽」「ナイス」のどの製品が多数発売され、海外への輸出も始まりました。

こうした状況を見て、当時の著名な実業家であった福澤桃介も白髪染の有望なことに目をつけ、開発しようとしたことが記録されています。現在でもハワイやアメリカ、中国で、ナイスや君が代の瓶がブログやオークションに登場するのを見るにつけ、海外進出の様子がうかがわれます。

ナイス ガラス瓶

なお、福澤桃介が製品を発売したとの記録は見つかりませんでしたが、その後の白髪染の発展を見ると、その見通しは正しかったことがわかります。

 

 

5.その他の製品紹介

千代ぬれ羽やナイス以外にも同様の製品が多数発売されています。その中のいくつかを紹介します。

また、明治時代に発売されたと確認された製品、28点の一覧も紹介します。なお、製品の詳しい内容については、次回からの「白髪染ガラス瓶の歴史」の中で紹介します。

    明治時代の白髪染一覧表      
番号 製品名 製造元 発売元 所在地 剤型 許可日
1 千代ぬれ羽 服部重右衛門 松栄堂 東京日本橋区通鹽町一番地 パラミン 明治39年
2 ナイス 深澤儀作 丹平商会 大阪市心斎橋 パラミン+過水  
3 君が代 山吉商店   東京市浅草区蔵前片町三番地 パラミン  
4 黒胡蝶 宅間末広堂   東京豊島区雑司ヶ谷町四丁目583 パラミン+過水  
5 美どりのつゆ 奥野源蔵 三共堂 東京神田区富山町 パラミン  
6 初からす 長尾徳造 日乃出商会 大阪東区伏見町一丁目 パラミン  
7 ぬれ羽色高砂 東京化学化粧品研究所   東京神田区橋本町三丁目四番地 パラミン  
8 鳳凰印白毛染 川上藤兵衛 大阪屋 東京日本橋区通三丁目 パラミン 明治41年
9 白髪染粉 関 いね   東京神田区塗師町七番地 銀、銅 明治41年
10 ベーヤ 江端商会 山崎帝国堂 東京神田区豊島町    
11 濡羽烏 渡邊晴吉   東京浅草区山谷町十八番地 パラミン  
12 佛國製ラクール 永久堂   東京京橋区元数寄屋町四丁目七番地 パラミン+過水  
13 うば玉 矢田猪平   東京神田区雉子町三十四番地 明治36年
14 白毛赤毛染液 岡田 まつ   東京京橋区本材木町三丁目四番地 硝酸銀 明治40年
15 ブラック 壽松堂 玉置合名 東京日本橋区瀬戸物町    
16 烏羽玉 和泉 郷 丸見屋商店 東京日本橋区橘町四丁目    
17 白毛液 十川保生堂   大阪市難波駅前    
18 若みどり 平尾鉄也商店   東京日本橋区横山町三丁目五番地    
19 二羽からす 水野甘苦堂   名古屋市東区京町三丁目 パラミン  
20 若松 平尾鉄也商店   東京日本橋区横山町三丁目五番地    
21 ミツワ染毛料   丸見屋商店 東京日本橋区橘町四丁目    
22 つや小蝶   森本支店 東京日本橋区横山町二丁目 パラミン  
23 みよほまれ 鈴木大吉 薔薇園 東京市下谷区竹町一番地 パラミン 明治41年
24 不変染黒染毛液 伊藤泰助 泰山堂 大阪西区新町通三丁目 硝酸銀  
25 みどり 東京化粧研究会 川上商店      
26 ヘヤブラック 江崎鈴之助     パラミン  
27 白毛染 山崎林平 山崎帝国堂    
28 新ぬれ烏液 河村仁太郎 楽天堂   明治40年

 

(1)液体一剤式

 ・「初から壽(はつからす)」 

初から壽(はつからす)1初から壽(はつからす)広告

 ・「高砂(たかさご)」

高砂(たかさご)パッケージ高砂(たかさご)広告

 ・「君が代(きみがよ)」

君が代(きみがよ)ガラス瓶君が代(きみがよ)広告

 

(2)液体二剤式

 ・「君が代」

君が代(きみがよ)ポスター君が代(きみがよ)広告2

 ・「黒蝴蝶(くろこちょう)」

黒蝴蝶(くろこちょう)パッケージ黒蝴蝶(くろこちょう)広告

 

6.理・美容界の動き

明治34年の「理髪営業取締規則」により理髪の近代化が国主導で進められましたが、明治39年の大日本美髪会結成は業界内部の近代化をもたらすものでした。また、明治42,3年からの理学講習会開催はその技術・衛生観念を地方に広める役割を果たしました。

当時、男性は理髪師、女性は女髪結と呼ばれ棲み分けがなされていましたが、明治39年に遠藤波津子が「理容館」を開き、婦人美顔術と新しい化粧、着付けなどをおこないました。

こののち海外に出ていた美容家が帰国し、新たな美容の展開が始まります。

 

7.まとめ

明治末に千葉医学専門学校(現「千葉大学医学部」)の雑誌に掲載された、小磯勝次郎「染毛剤に就て」は

明治全般の白髪染の流れがわかる資料ですので、ここにその項目を紹介します。

(甲)無機性染毛剤

(一)鉛製染毛剤・・・欧米諸国においても法規を侵し、所謂密売薬として販するもの多く、本邦においても亦本製剤は多く・・・

(二)銅製染毛剤・・・美麗なる純褐色を呈するが・・・

(三)カドシウム製染毛剤・・・有害着色料として其使用を厳禁・・・

(四)クローム製染毛剤・・・有害性物質として使用する能わず・・・

(五)錫製染毛剤・・・有害性品なれば用ふる能はざるものなり・・・

(六)銀製染毛剤・・・今尚広く応用せらるるものなり・・・

(七)蒼鉛製染毛剤・・・毛髪を黒染するには適せず・・・

(八)コバルト及ニッケル製染毛剤・・・本邦人の如き黒髪を尊ぶ者には適せざれば・・・

(九)鉄製染毛剤・・・本邦古来より鉄製着色料を使用せし処より、今尚市場に本製剤を散見すること屡々なり・・・

(十)マンガン製染毛剤・・・本製剤は毛髪を褐染するには適合すと雖も・・・

(乙)有機性染毛剤

(第一)天然有機性染毛剤

(一)墨粉製染毛剤

(二)胡桃エキス製染毛剤・・・胡桃より製したる染毛剤は古来より使用せらるる・・・

(三)波斯(ペルシャ)製染毛剤・・・ヘンナとレングについて・・・

(四)カシューエキス・・・新鮮なる液汁は強大なる染色力を有すると同時に刺激性も亦強し・・・

(第二)人工的有機性染毛剤

(一)ピロガロール製剤・・・本製剤は染毛剤として其使用を許容しあれど、無害なるものに非らず・・・

(二)有機性塩基又ハ其誘導体含有ノ染毛剤・・・パラフェニーレンヂアミン

この項目順番が、明治時代の白髪染の歴史を表しています。このように、明治時代は日本の白髪染の新たな幕開けであり、また現在につながるヘアカラー文化の始まりといえます。

なお、先ほど予告したように次回から4回にわたって「白髪染ガラス瓶の歴史」について解説します。製品ごとに、現在分かっている情報をすべて紹介していきます。

<参考資料>

・斉斉哈爾ニ於ケル日本売薬情況  戦前期外務省記録  大正三年  外務省外交史料館

・丹平製薬70年史

・報知新聞記事       明治43年12月21日

・毒物劇物取扱規則改正   明治45年5月10日  内務省令第5号

・福澤桃介白髪染を研究す  実業の日本 10(23) 近世逸話より 明治40年(1907)

・海外のナイス  ブログ「Minoru 生活雑記」2011,10,30(カナダ)

ナイス ガラス瓶

         ブログ「ゆずみそ手帖」2011,9(ハワイ)

ナイス ガラス瓶2

・君が代     ブログ「海辺のコレクションボックス」2007,3,13

君が代(きみがよ)ガラス瓶

4 Replies to “第8回 明治時代・後期の白髪染(その2)”

  1. ざっとですが拝見させていただきました。ここまでですでに圧倒的な情報量に圧倒されます。今後も参考に拝見させていただきたいと思います。
    (しかし私のポンコツ頭では理解度がついていけない…。)

    こちらは基本的に拾い物ブログなので、あくまでびん本体が中心になりますが、白髪染めの瓶も初見のものは取り上げたいと思いますのでまたご教授のほどよろしくお願いいたします。

  2. 納言を検索していて辿り着きました。
    祖父(イソ化研)の兄がナゴンを製造していました。
    祖父は歯香(入れ歯グリップ)やカラーリンスを製造していました。
    病気で倒れてカラーリンスの製法をナゴンに譲りましたが、
    私が子どもの頃、製造を止めた工場に残された過酸化水素のガラス瓶が、夏の高温でポンと音を立てて栓が飛んだのを記憶しています。
    イソ化研のマークは、出光のマークに似ていて、髪をなびかせる女性の横顔をデザインしたものでした。
    もし、イソ化研のものに出会うことがありましたら教えていただきたいと思いコメント書かせていただきました。

    1. 当銀さま、返信が遅くなり申し訳ありません。実は10年ほど前まで、「染毛剤懇話会」という団体の事務局を担当しておりまして、科薬染毛剤研究所の磯基道社長とは面識もあり、多少お話も記録しております。磯社長とイソ化研をお聞きしましたが、「磯孝夫」氏は遠い親戚とおっしゃっていました。「納言」については、磯社長の父上が昭和13年頃、東亜理化学工業所を起こし、製造を始めたと聞いております。イソ化研に関しては、昭和35年の「ヘヤダイ工業会」(現在の日本ヘアカラー工業会)の創立当時の会社の一つで、詳しい内容が分からなかった会社でした。

  3. ドクターKさま
    能書に記載されたパッチテストの歴史を調べています。
    昭和45年の通知以前にも能書にはパッチテスト記載があり、
    調べると昭和37年に通達がでているとの資料がありました。
    ただ、昭和37年以前(小箱に公定書外医薬品記載あり)の能書にもパッチテスト記載があり、古い製品の能書を確認すると昭和26年とされる製品には記載がないため、昭和28年頃までの間に何らかの行政指導または業界団体の活動があり、記載が始まったと推察しています。
    あるいは、フランスでは1951年(昭和26年)からパッチテスト記載義務、アメリカでは1938年(昭和13)から記載義務があるので、その影響を受けたとも考えています。
    何かご存じないでしょうか、メールでお返事いただければ幸いです。

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