「もうちょっと詳しい白髪染の歴史」 第3回 中・近世の白髪染について

お歯黒道具
お歯黒道具

はじめに 

古代の白髪に関する知見について 

・白髪の老人は尊敬されていたから、白髪を染める必要はなかった。 

・医心方にある白髪染処方が、宮廷において実際に使用されたかは不明だが、一般庶民には広がってはいないようです。 

・清寧天皇に関してはさらに調査が必要。 

・若い世代の髪の悩み、若白髪、赤毛などは白髪世代より深刻であったと思われます。 

1.中世の白髪意識 

平安時代に登場した二人の武将の「白髪」に対する事例をもとに、その意識について考えてみました。 

(1)斎藤 実盛 の場合 

実盛像(埼玉)
実盛像(埼玉)

略歴                               

・平安時代末期の武将、1111年~1183年(72才) 

・越前国(石川県)の出身。のちに武蔵国(埼玉県)長井庄を本拠地とする。 

かぶとの碑 
かぶとの碑

・当初は源氏側についていたが、のちに平氏側となる。         

・寿永2年(1183)4月、平維盛を総大将として木曽義仲追討軍が北陸に向け出陣。 

・同5月、倶利伽羅峠の戦いで惨敗し、維盛は加賀国へ退却。 

・同6月、篠原の戦いでは、4万騎もいた平氏側の軍勢もわずか4,5騎となり、実盛も討たれ 維盛は命からがら都に逃げ帰る。

戦いの図 
戦いの図

白髪に対する意識 

実盛の白髪を染めたことに対しての評価はいろいろありますが、一番は「老人として侮られたくない」とのことではと思います。侍として全力を尽くして戦う際に、白髪の老人だから手を抜かれるようなことがないように、「髪を染めた=白髪を隠した」のでしょう。          

「鉱物性無機顔料」との表現 

「鉱物性無機顔料」との表現
「鉱物性無機顔料」との表現

実盛が髪を染めるために使ったのは「墨」ですが、「鉱物性無機顔料」と書いている資料も見受けられます。古代の赤に使った「辰砂(水銀)」「弁柄(鉄)」などは「鉱物性無機顔料」ですが、 ここでははっきり「墨」と書かれていますから、そのまま使うのが適当ではと思います。

(2)源 頼義 の場合 

略歴

・平安時代中期の武将、988年~1075年(87才) 

・1031年、平忠常の乱を鎮定。 

・1051年、陸奥守として安倍頼時を鎮撫に赴いた。 

・1057年、頼義は頼時を討ったが、頼時の子、貞任を中心とする安倍氏の抵抗の前に苦戦。 

・1062年、貞任を討ち安倍氏を滅ぼす。(前九年の役)  

 白髪に対する意識 

実盛より100年も前の源氏の勇猛果敢な武将としても有名な頼義ですが、陸奥守として10年以上にわたる東北での長く苦しい戦いの末、安倍貞任を討ちとります。 その直前の自陣での部下の言葉。 

「将軍(頼義)のお姿を拝見し、白い髪が半ば黒に戻っている。貞任(敵の大将)の首を取ることができれば、髪もきっと黒く戻るでしょう」 

 強いストレスで身体、特に髪が白くなるとの話はよく聞かれますが、ストレスがなくなると戻るというのは、あまり聞きませんが、歴戦の厳しさを表した言葉でしょうか。 

 <まとめ> 中世における白髪染の痕跡は、戦国時代に老将が髪を墨で染めたとのことしか見つかりませんでした。「お歯黒」で染める習慣があったと書かれている文章がありましたが、おそらく習慣としてはそうしたことはなかったのではと考えます。やはり世の中が落ち着いてきた江戸時代になってからが「白髪染」の始まりではと考えます。 

2.お歯黒について 

明治時代に入って大きく変わったことがあります。男性は「ちょんまげ」、女性は 「お歯黒」の禁止です。1000年の習慣が一夜で覆るわけですから、庶民の混乱も大変なことであったと思います。ここではそのうち、「お歯黒」についていろいろ紹介したいと思います。 

ちょんまげ
ちょんまげ
お歯黒
お歯黒

 参考文献  山賀禮一  お歯黒のはなし  ゼニス出版  2001年 

      原 三正  お歯黒の研究   人間の科学社 1981年 

      島村 たかし 香登(かがと)お歯黒 サンコー出版 平成元年 

(1)お歯黒の呼称について 

「お歯黒」に関しては様々な呼び名が出てきます。 

黒歯、歯黒、歯黒め、お歯黒、かね(鉄漿)、かねつけ、かねさし、涅歯(でっし) 

・御所では・・・フシの水、ヌキスの水 

・公家、武家では・・・お歯黒 

・江戸庶民は・・・かねつけ、つけかね 

と使い分けていたようで、江戸時代においては「かね(鉄漿)」が一般的であったようです。 

(2)お歯黒の起源 

 1.南方渡来説 

・東南アジアではビンロージの実をチューインガムのように噛み、歯を染めています。 

2.日本古来説 

・日本国内でも、山ブドウのような植物の実を噛んで歯を染めることが見られるようです。 

3.大陸渡来説 

・朝鮮半島を経由して日本に伝わったとする説です。ただ、中国、朝鮮にはお歯黒のような 習慣は見られないようです。 

 (3)お歯黒の種類と成分内容 

国内には2種類のお歯黒がありました。 

多くの資料では、各家で作っていた「鉄漿水」をお歯黒としていましたが、岡山県の香登地域では古くから全く異なった、粉末の「お歯黒」を作って公家や武士に販売 していました。              

お歯黒壺 
お歯黒壺
かめぶし(明治20年頃)
かめぶし(明治20年頃)

・一般家庭で作っていたお歯黒 

各家庭で作ったり、分けてもらったりしたもので、発酵の具合がむつかしく、染まり にくく、歯を痛めることもあったようです。 

米、飴などのでんぷんや糖分に鉄くずをいれて発酵させその上澄みと、木の虫こぶからつくった五倍子(ふし)を使って染めます。 

年配者にならないとよく染まる「鉄漿」ができないので、新参者は年配者から少しずつ 分けてもらったり、作り方を教わっていたようです。 

・香登(かがと)のお歯黒 

鑑真和上が伝えたといわれるもので、化学成分の原料を使用しており、使い方も簡単で しっかり染まるようです。ただ価格が高いため、宮中、大名、豪商など一般庶民にはあまり 流通しなかったようです。 

五倍子にローハ(硫酸鉄)、貝灰を混ぜた粉末状のものです。 

この両者の「お歯黒」の違いは、その外観、使い方と染まり具合にあります。 

一般家庭で作るものは液状タイプで、お歯黒壺と呼ばれる備前焼、常滑焼などの壺の中で熟成させます。 

香登のものは粉末で、水をつけて染めるだけでよく染まります。 

(4)お歯黒を使っていたのは? 

古くは宮廷の公家を中心に、戦国時代の武将の一部も使っていたようですが、江戸時代になると武士は行わず、女性の既婚者が中心となったようです。 

(5)お歯黒の使い方 

・一般家庭のお歯黒の場合  

米屑を少し入れた水の中に古鉄を入れ、3~7日放置していると黄赤色の鉄漿汁ができる。 

五倍子を歯につけ、次に鉄漿を塗り、これを何回か繰り返すと歯は真っ黒に染まるはずです が、染めやすくするための薬剤を使ったり歯の表面を削ったりしていたようです。 

地方では、五倍子の元となるヌルデの虫こぶなどは子供が集めていたことも記録されており、自給自足で行っていたようです。 

 ・香登(かがと)のお歯黒の場合 

五倍子、ローハ(緑バン=硫酸鉄)、貝灰(シジミ貝)を混ぜたものを、水を含ませた筆に とり、歯に塗ると黒く染まる。一般的なお歯黒と比べ何度も塗ることなく染まる。 

簡単にむらなく染めることができ、旅行用に携帯することも出来たようです。ただ、一般品と 比べ値段が高いので、公家、武家、商家など販路は限られていたようです。 

 (6)お歯黒道具について 

お歯黒道具に関しては、一般庶民が使っていた無地の黒塗り箱タイプから、大きな商家が使っていた家紋入りの道具箱、更に美術館クラスの大名家紋入りのものまでありました。 

一般家庭クラス 
一般家庭クラス
商家クラス 
商家クラス
大名クラス
大名クラス

・お歯黒箱・・・お歯黒道具一式を収納するための箱。鉄漿碗、嗽茶碗以外のものを入れた。 

お歯黒道具一式
お歯黒道具一式
お歯黒道具箱
お歯黒道具箱

・五倍子箱・・・五倍子粉を入れる、かぶせ蓋の方形木製小箱。 

・渡し金・・・鉄漿たらいの上に渡し、五倍子箱と鉄漿碗を置くためのもの。 

・鉄漿沸・・・お歯黒壺の鉄漿水を沸かすためのもの。 

・鉄漿碗・・・沸かした鉄漿水を入れるための容器。 

・鉄漿たらい・・・うがいなどの汚れ水を捨てるための容器。 

・嗽茶碗・・・嗽によって口中をすすぐためのもの。 

・房楊枝・・・歯磨きのために使用する。 

・羽楊枝・・・お歯黒を歯の表面に塗布するためのもの。 

・楊枝箱・・・房楊枝を入れる箱。 

・楊枝差し・・・房楊枝を数本入れておくもの。 

・鉄漿下・・・お歯黒付け前に歯の表面を処理するためのもの。 

・お歯黒壺・・・鉄漿水を作り蓄えるためのかめ。香登のお歯黒の場合は必要ない。 

・楾(はんぞう)・・・水の補給の容器。ふつうは湯桶を使った。 

・鏡 

・雛飾り・・・昭和初期までの雛飾りにはお歯黒道具一式が入っていた。 

 このほか、お歯黒壺はオークションにもよく出品されて特に人気が高く、高値で取引されて いるようです。 

お歯黒壺
お歯黒壺

(7)お歯黒の応用 

古くからお歯黒の技術を応用した特産品が多く存在します。 

 ・大島紬 

鹿児島・奄美地方で作られる高級かすりの織物。糸をテーチキ(車輪梅)の樹皮を煮だした 液に浸し、その後鉄分の多い泥田に入れて発色させました。(泥染め) 時がたつにつれ黒味、深みが増して美しくなります。 

泥染め 
泥染め

・ブルーブラックインキ 

鉄塩と植物由来のタンニンから作られたインク。 

インク瓶
インク瓶

(8)お歯黒のその後 

明治元年、三年の太政官令と明治六年には皇太后がお歯黒、掃眉をやめたことにより、お歯黒は 禁止の方向になりました。 

しかし香登では「白髪染用」といった口実で、お歯黒の生産を続けていたようです。さらに、香登のお歯黒をまねて、新たに「便利お歯黒」として、明治20年代から販売されました。 

 (かめぶし のほかにも「ぬれがらす」「べんりぶし」「はやかね」など多数販売 されていました。) 

しかし、新たな使用者の参入もなく、昭和40年代まで使用者はいたようですが、結局 

消滅したようです。香登でも昭和22年最後の生産となりましたが、現在復活して 「ぬれがらす」の名称で販売されています。          

今回この製品を入手しましたので紹介します。 

香登のお歯黒 
香登のお歯黒

(9)お歯黒「ぬれつばめ」 

お歯黒として販売している国内唯一のこの製品は、もちろん「お歯黒」としても 

使えますが、説明書によると黒豆を煮るのにも最適なもののようです。 

 

 3.お歯黒と白髪染について 

ここからが本題となる、お歯黒と白髪染との関係についてです。 

白髪染の歴史に関して解説しているほとんどのブログやHPでは 

「明治の中頃まではお歯黒で10時間かけて染めていた」 

といった記述がみられますが、その出典は不明でした。 

多くの化粧関係の書籍ではお歯黒と白髪染めの関係については全くふれていませんが、今回 「香登のお歯黒」の文章中にいくつか白髪染との関連を示す記述が見つかりましたので、 その内容を検証しながら調べてみたいと思います。 

 1.「昔旧暮時代から、明治35年頃迄は、老人の白髪染めにはお歯黒が唯一の染料であった。」 

明治の中頃までお歯黒しか白髪染がなかったと書かれています。しかし明治期には鉛や銀を使った金属染毛剤、更に新たに酸化染料による酸化染毛剤も登場しており、お歯黒が唯一との 指摘は間違いであると思います。 

新聞広告調査から考え、東京、大阪、横浜などの都会と比べ、地方の香登では新しい染毛剤の情報が届いていなかったのではと推察されます。 

明治20年代の白髪染 
明治20年代の白髪染

 2.お歯黒を塗れば、何度先髪(洗髪?)しても落ちないので重宝がられていた。 

お歯黒の染まり具合は、洗って落ちる着色料のようではなく、白髪染のようにしっかり染まるもののようですが、実際のところそれ程しっかり染まったのかは疑問です。戦前の染毛剤は 染毛力が弱いものが多く、染める前に必ず洗髪が必要でした。 

 3.若干の欠点もあった。ウルシが含まれているので髪がこわくなること。 

五倍子を取るのはウルシ科のヌルデの木であるため、ウルシが混じることがあったようです。 

髪がこわくなる(固くなる)よりも、ウルシかぶれの心配があったと思われます。お歯黒は 

直接口に入れるため、かぶれやすい人には影響が出やすかったと思われます。 

 4.明治35年以降は新しい白髪染めが製剤されたために、お歯黒は白髪染めとしての使命が失われ、自然とお歯黒の消費量も激減した。 

明治中頃以降登場した「金属染毛剤」や「酸化染毛剤」は染毛時間や使い勝手、染毛力の点で お歯黒よりも優れていたため、必然的に使われなくなったようです。 

 5.男性のお歯黒の外、白髪染めにも使用された一例として、歴史書の大日本史「さいとうさねもり」の項を参考資料としてあげています。 

本編中世の斎藤実盛の項でも記したように、原出典の「平家物語」の中で「墨を塗って」と書かれており、白髪染ではないことは明らかです。大日本史の中でも「髪を染め・・・」と 書かれているだけで、お歯黒白髪染とは書かれていません。 

ちなみに、お歯黒は染まると何度も洗髪しても色は落ちないと書かれていましたから、 仮にお歯黒で染めたとしたら、髪を洗って白髪に戻ったという実盛の話と矛盾します。 

 6.戦国時代には、年輩の武士は、白髪をお歯黒で黒く染め、若い武士のいでたちで戦場に臨んでいた。 

今まで、斎藤実盛の例が特別なものと思っていました。戦国時代すでに老将は髪を染めて 若武者として戦に臨んでいたと書いていますが、大いに疑問です。実盛の話を拡大したのではと思われます。 

7.全国の豪商達や長者連中も42歳を超えると、お歯黒で白い歯を染め、白髪を染めていた 

北原十三男「実際美容術」(昭和6年)には、 

昔からある、一夜手拭を被って染めるものは、鉄漿(おはぐろ)単ニーネ類(五倍子)の合剤であります。 

との記述があり、香登の生産者も語っているように、お歯黒で白髪を染めることにも使っていたことは確かでしょう。 

ただお歯黒は使い方が面倒で、あまり染付が良くないなどの点から定着しなかったことも 書かれています。 

戦国時代、江戸時代の例については、今のところ資料がありませんので、今後の調査を 進めてみたいと思います。 

こうして消滅した「お歯黒白髪染」ですが、昭和時代の初め頃「かぶれない白髪染」として 再登場します。詳しい経過は「昭和時代の白髪染」を参照してください。 

さて、「お歯黒、10時間」についてですが、有力な資料が見つかっています。 

それは、明治42年に婦人衛生雑誌に掲載された「頭髪のたしなみ」という文章にあります。 

当時行われていた白髪染の方法として、「アニリン(酸化染料)を使う方法」「硝酸銀を使う方法」「鉛で染める方法」、と並んで「おはぐろで染める方法」として挙げられています。 

タンニンを含む植物の実や皮を鉄なべで煎り、そこに銅粉、鉄粉、明礬を加えたものに、茶を煎じた汁を加えて火にかけ、冷えたのち髪に塗布する。「この方法では十分に染め上がるには10時間以上かかります」と記載されています。 

この方法は、昭和8年に雑誌で紹介されていた「烏翠膏(うすいこう)」とほぼ同じ使い方のようで、古くからの文献にもタンニンと鉄粉などを煎じる方法も記載されていました。 

おそらくこの頃から、「おはぐろ、10時間」が定着したものと考えられます。 

ここで気づくのは、ここでいう「おはぐろ」は、一般的に歯を染める「鉄漿」ではなく、鉄分とタンニンを煎じたものを使っており、正確に言えば「お歯黒」ではなく、「お歯黒類似の」染毛剤というべきでしょうか。 

 また、別の資料では「明治末期には、おはぐろをどろどろのクリーム状にして瓶に詰めた ものが、ウスイコウ、ヤングなどの商品名で発売された。これがわが国で発売された最初の 染毛剤であった。」(ホーユー:五十五年のあゆみ より)とあります。 

残念ながら、明治10年代既に国内で白髪染が発売されていることは確認されています。 

こうした思い込みが起きた背景には、当時の情報伝達が不十分であったからと思われます。 

明治になって、やっと新聞、雑誌などが広がり、例えば「仁丹」や「胃腸薬」「征露丸」などの大量の広告宣伝で市場が形成されていく経過は、いい例です。 

白髪染についても、酸化染毛剤が登場した明治40年前後には、「千代ぬれ羽」の大量広告宣伝が見られ、ものすごくインパクトがありました。 

昭和になってからは、白髪染のテレビ宣伝も大きな影響力がありました。 

この点に関しては、明治期の白髪染で詳しく解説します。 

その後、昭和初期にはお歯黒にヒントを得て、若園博士が「黒若」の特許と製品化を 行いました。 

ポイントとなるのは、髪に染料を浸透させるためには「アルカリ」が必要とした点でしょうか。 

お歯黒そのものは、酸性から中性のものであるため、通常の染毛時間では染毛力は得られ なかったのではと考えられます。

トピックス ホーユーヘアカラーミュージアム開館  

5月から、名古屋市東区、徳川美術館南の一般公開始まる。

外観 
外観
内部 
内部

日本初のヘアカラーに特化した初めてのミュージアムとして、ホーユーが手掛けたのには理由があります。 

戦前、戦後から現在まで続く最も歴史のあるメーカーです。一説には数百社ともいわれた数多くのメーカーが明治時代以降白髪染に携わってきましたが、当時の様子を伝えられる唯一のメーカーだからです。ですから戦前・戦後の貴重な資料を多数所蔵しているでしょう。 

特に初期の木製看板やホーロー看板はホーユーが最初に始めたものですし、市場にほとんど残っていない戦前の白髪染製品のコレクションも公開が期待されます。  

二羽からす看板
二羽からす看板
二羽からす製品
二羽からす製品

化粧に関する多くの書籍がある中で、白髪染について解説されているものが全くないことは、 非常に残念なことです。ミュージアム開館を機に社内外からヘアカラーの研究が進み、次世代に伝えていってほしいと思います。  

<コラム> 日本で白髪染の研究が始まったのはいつから? 

白髪染の歴史を色々調べてきましたが、それでは日本で本格的に「白髪染の研究」が始まったのはいつごろからでしょうか。 

実は、これについてははっきりしています。 

明治の中頃から、海外の文献の翻訳などに、白髪染も登場しますが、国内の状況を反映したものではありませんでした。こうしたなか、衛生試験所の技官であった、石津利作氏の出した 

衛生試験彙報の中の「市中販売毛染剤試験報告」(内務省衛生試験所)が、国内で最初のまとまった研究報告であると思います。 

そのころ市場で販売されていた染毛剤を収集し分析検査等を体系的に行い報告したものです。 

ここでは16種の製品を分析し以下のように分類しています。 

・パラフェニレンジアミンが主成分 ・・・9種 

・苛性石灰と鉛が主成分      ・・・3種 

・硝酸銀と硫化物が主成分     ・・・2種 

・酢酸鉛と硫化物が主成分     ・・・1種 

・タンニン酸と銅・鉄が主成分   ・・・1種 

この報告が優れているのは、単に製品分析だけでなく、毛髪の損傷を測るため、引張試験を用いたり、外国での酸化染料の使用状況、規制について、更に、白髪染事故の被害者についても聞き取り調査を行っています。当時は酸化染料に原因があるとの認識がなく、被害者も名前などが知られるのを極端に恐れていた環境もあり、大変な調査であった本文中に書いています。 

こうした多方面からの分析を行った最初の報告であると思います。 

なお、石津利作氏については、第8回明治時代後期の白髪染でも解説しています。 

このあと業界では製品開発が進みますが、皮膚科専門医からの染毛剤事故報告も多数続きます。 

そうした背景から、「お歯黒式染毛剤」が見直され、昭和になって新たな製品の登場につながります。 

さて、次回からは第4回江戸時代の白髪染を報告したいと思います。 

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