「もうちょっと詳しい白髪染の歴史」第2回 古代に白髪染は存在したのか?

白鬚神社
白鬚神社

前回の「医心方」では1000年以上前に中国(隋、唐ほか)から、白髪を染める方法に関するいろいろな情報が日本に伝わっていたことがわかりました。そこで今回は、それ以前の時代に白髪染が国内に存在していたのか、また人々は髪にどのような関心を持っていたかについて調べてみました。

まずその前に、最近展示会で興味深いものに出会いましたので、内容を少し修正しお伝えします。

古代世界における染毛剤の展開

古代文明発祥の地における「ヘアカラー」の誕生を記載していましたが、ここでは少し修正を加え、地域間の連携、更にはその後の展開についていくつかの仮説を立てました。

古代世界における染毛剤の展開
古代世界における染毛剤の展開

仮説1 中国で発生した「鉛を使った染毛剤」が三大発明(火薬、印刷、羅針盤)と共にシルクロードを経由してヨーロッパに伝わったと思われる件。

仮説2 ヨーロッパでのこの「鉛染毛剤」が、オランダを経て日本に伝わったと思われる件。

仮説3 アッシリア、インドで使われていた「ヘナ」が、エジプト王朝に伝わって、ファラオが使っていたと思われる件。

現在は日本国内について取り組んでいますから、世界における染毛剤の展開についての仮説の懸賞は、別の機会に報告したいと思います。

では、まずは古代の白髪に関する考え方についてみていきたいと思います。

1.神話の時代から

時代は「日本書紀」「古事記」の世界ですが、現存する古い時代の神社にも「髪」にまつわる痕跡が見つかります。

全国何万社の中に「白髪神社、白鬚神社、白髭神社、白髯神社」との名称の神社が数百社あります。

名称は「しらがじんじゃ、またはしらひげじんじゃ」と呼ばれています。

その中でも、白鬚神社の総本社と呼ばれるのが滋賀県の「白鬚神社」です。

特に、琵琶湖の中に立つ鳥居は有名です。 

白鬚神社鳥居
白鬚神社鳥居

住所:滋賀県高島市鵜川215(琵琶湖の西岸)

祭神:猿田彦命(さるたひこのみこと) 

白髪で長い鬚(ひげ)を蓄えた老人の姿で、延命長寿白鬚の神として知られています。

猿田彦命
猿田彦命

創建:垂仁天皇(第11代)25年、紀元前5年(2000年以上前)

御利益:縁結び・子授けから商売繁盛・交通安全など人の世のすべての導き・道開きの神他方、黒髪神社、黒髪山神社も各地に存在します。

・佐賀県武雄市、黒髪神社

創建は崇神天皇16年(3世紀後半)

祭神は闇淤加美(くらおかみ)神、いざなみのみこと、はやたまのみこと、ことさかのをのみこと。

黒髪神社
黒髪神社

・群馬県北群馬郡榛東村、黒髪山神社

祭神は大山津見神

神社の名前は「くらおかみ」からきているそうです。

黒髪山神社
黒髪山神社

その他、黒髪山大智院(長崎県佐世保市)黒髪山西光密寺(佐賀県武雄市)などのお寺もいずれも黒髪山を霊山としています。

また、黒髪山稲荷神社(奈良県奈良市)の黒髪山(黒髪佐保山)の場合、古事記には、山に「黒髪」を埋めたと伝えられています。

白髪の猿田彦神と比べ、黒髪の場合は自然崇拝が共通しているのでしょうか。

この時代は白髪・白鬚を長寿ととらえ、尊敬・信仰の対象ですらあったと思われますので、白髪染の存在は考えられないのでしょう。

2.民話の世界から  

先回のシリーズの最初でも紹介しましたが、全国には髪にまつわる民話、伝承がいくつも存在します。

時代や背景が明らかでないものもありますが、ある程度史実に沿ったものも存在します。

そうした話から、当時の人たちの「髪」に関する関心の傾向がうかがわれます。それは現在にも通じるものもあるようです。

・福岡県筑前町、五玉神社「黒髪の井戸」

若白髪で悩むお姫様が、白いカラスが黒くなった「黒髪の井戸」により、黒髪となる話。

詳しくは筑前町のYouTube動画「黒髪の井戸」を参照。

他に「赤い(明るい)髪を黒くする」といった話もあるようで、古くから若白髪や赤毛が若い人たちの悩みとして既に存在していたのではと思います。

黒髪の井戸
黒髪の井戸

・三重県四日市市、萱生城(かようじょう)跡「髪のびの井戸」

住所:三重県四日市市萱生町字城山

由来:戦国時代、この地を治めていた春日部氏が織田信長により落城。戦火の中、多くの人が城内の井戸に身を投げた。その後この井戸を覗くと、髪が伸びるとの言い伝えがあります。

髪のびの井戸
髪のびの井戸

ただ、井戸と「髪のび」との関連ははっきりしませんが。

「医心方」や、江戸時代の「都風俗化粧伝」にも髪を黒く長くする方法も書かれており、「髪のび」も人々の悩みであったのでしょうか。

・東京、関神社「逆髪姫」のはなし

住所:東京都北区王子本町1-1-12 王子神社末社

由来:「髪の祖神」として知られ、祭神は蝉丸公(百人一首で有名)

蝉丸(帝の皇子)の姉「逆髪姫」が逆髪で嘆き悲しんでいたので、侍女に命じて「かもじ・かつら」を考案し、髪を整える工夫をしてあげた。滋賀県に祀られていたものを、昭和34年、この地に再建しました。

関神社
関神社

髪の長い美女ばかりの宮廷にも、こうした悩みの人もいたということでしょうか。

・和歌山県日高郡、「髪長姫」と道成寺創建の話

髪長姫とは、藤原不比等の長女、宮子(宮子姫)のこと。

海女の夫婦に女の子がありましたが、髪が生えてきませんでした。ある時、母親が海に潜って小さな観音様を引き上げましたが、母親は息を引き取りました。里の人が観音様を祀ると、女の子の神がどんどん伸び、皆から「髪長姫」と呼ばれる、黒髪の美女となりました。その後、不比等の養女となった髪長姫は、文武天皇の后となり、母親と観音様を祀るため「道成寺」を建てられました。

道成寺
道成寺

日本書紀にみられる「日向髪長比賣」とは別の、髪の長い姫のお話です。

これら髪の悩みに登場するのは、白髪世代よりも若い世代の方々ばかりです。

  • 天皇の時代から

古代史において数々の人物が登場しますが、白髪天皇と綽名(あだな)をもつ方が見えます。

清寧天皇(白髪天皇)について

5世紀末頃の第22代天皇。

日本書紀では 白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)

古事記では、 白髪大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)

生来の白髪であった事、在位5年ほどの短期間であった事が知られている。

清寧天皇
清寧天皇

ところで、江戸時代の類書(百科事典)「和漢三才図会」正徳2年(1712)の「白髪」の項目を調べていたところ、「清寧天皇」と白髪染に関する記述がありました。          

和漢三才図会
和漢三才図会

・巻第十二 支体部 髪 

「清寧天皇が生まれながらにして白髪であった類である。白髪を染める薬がある。」

との記述がありました。更に、

・巻五十九 金類 鍼砂(はりやのせんくず)

鍼砂とは、作鍼家(はりや)の針を磨いたときに出る細末のこと。

白髪を染める薬の例として

鍼砂(醋で七回炒る)・・・鉄の粉

訶子(かし)・・・シクンシ科のミロバランの果実を乾燥したもの。タンニンの含有量が多い。

白芨(びゃくきゅう)・・・ラン科のシランの球茎を乾燥したもの。

百薬煎(ひゃくやくせん)・・・五倍子を茶の濃煎汁とまぜ発酵させたもの。

緑礬(りょくばん)・・・硫酸鉄が成分。本草綱目には、「白髪染」として緑礬、薄荷、烏頭等分を末にし、鉄漿水に浸して日毎に染める、とある。

この処方は鉄と五倍子を使った、いわゆる「お歯黒」とほぼ同じものと思われます。ただ、今まで「お歯黒」に関する処方が見つからなかったが、江戸中期の「和漢三才図会」、更に、江戸初期に輸入された「本草綱目」の鍼砂の項に同様の記述が見つかったことで、江戸時代には鉄を使った、いわゆるお歯黒式の白髪染めが存在したようです。ですから、江戸時代から1000年以上前の清寧天皇が、「いわゆるお歯黒式」の白髪染を使っていたとするのは、はなはだ疑問です。このあたりの関係については、次回の第3回「中、近世の白髪染について」で検討したいと思います。

 

<コラム> 髪にまつわる神社について

今回調べた神社、お寺の中で「髪」にかかわりが深いところをいくつか紹介します。

・京都、御髪(みかみ)神社

住所:京都市右京区嵯峨小倉山田淵町10-2

キャッチコピー:日本唯一の髪の神社

祭神:藤原采女亮政之(ふじわらうねめのすけまさゆき)

創建:昭和36年(1961)、京都市の理美容業界関係者により創建された。

御髪神社
御髪神社

・東京、湯島、柳の井

住所:東京都文京区湯島3-32-4 天台宗 湯島聖天 心城院

キャッチコピー:江戸の名水 美髪・厄除け「柳の井」

由来:江戸時代の文献に「この井は名水にして女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはらほぐれ垢落ちる。気晴れて風新柳の髪をけずると云う心にて、柳の井と名付けたり」とあります。

柳の井
柳の井

・高松、髪授神祠(はつじゅしんし)、理容遺産

住所:香川県高松市宮脇町一丁目

祭神:飽昨能宇斯神(あきぐひのうしのかみ)、北小路采女亮藤原政之公

由来:昭和31年(1956)、香川県理容生活衛生同業組合の有志47人によって建立され、令和2年に「全国理容遺産」に登録されました。

髪授神祠
髪授神祠

理容ミュージアム

住所:東京都渋谷区よよ技1-36-4 全理連ビル

全国理容生活衛生同業組合連合会(全理連)

2016年からスタートし、江戸時代から現代まで、理容業にまつわる道具や

資料の展示を行っています。

理容ミュージアム
理容ミュージアム

 

 

  • 古代における白髪に対する考え方

・万葉集から竹取の翁の歌

 白髪し子らに生ひなばかくのごと若けむ子らに罵らえかねめや

 死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪子らに生ひずあらめやも

 この歌には、老人と若者の「しらが」に対する考え方が表れています。

・若者=黒髪 もすぐに 白髪=老人となってしまいます。

 むしろ古代でも若白髪、逆毛など、髪の悩みが多いのは「黒髪」の世代でしょうか。

 結論としては、古代において老人は「しらが」を隠す必要がなかったと思われます。

 ただ、若者の「若白髪」に対して、どの様にしていたのかについては不明な点が残っています。

 中世以降、髪自体への関心が高まるにつれ、白髪への意識も変化したのでしょうか。

 そのあたりは、次回の江戸時代の白髪染について、もうちょっと詳しく調べてみます。

<参考資料>

・全国理容生活衛生同業組合連合会(全理連)HP

・白鬚神社(滋賀県・高島市)HP

・黒髪神社(佐賀県・武雄市)HP

・筑前町郷土紙芝居 「黒髪の井戸」

・道成寺(和歌山県・御坊市)HP

・心城院(東京都・湯島)HP

 

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