1.はじめに
本年3月末を以て、愛知県豊川市の「サミゾホーロー看板研究所」(看板と広告の資料館)が閉館されました。
館長の佐溝さんについては、ホーロー看板に関してあまりに有名ですから紹介するまでもありませんが、白髪染に関する看板や資料も多数お持ちで、いろいろお世話になりました。
収集された資料は北名古屋市の資料館に寄贈されるそうで、貴重な収集品が散逸しなくてうれしく思います。
しばらく前の訪問時の写真ですが掲載します。
2.白髪染における大正時代とは一言でいえば「変化と成長の時期」でしょうか。
明治38年に新たな酸化染毛剤が登場し大ヒットするも、その安全性の問題から「毒物劇物取扱規則」の改正が行われました。そして大正時代に入って新たに許可の再取得が必要となり、多くの製品が再スタートしました。(いくつかの製品名は微妙に変更されましたが)そして当時の「社会・経済・文化」などの影響を受けながら、白髪染はその剤型や表示などいろいろと変化させて、国内外に市場を拡大していきました。
明治末期における酸化染毛剤の功罪について
明治時代の「鉛や銀」を使った白髪染と比べ、酸化染毛剤の「千代ぬれ羽」や「ナイス」には多くの優れた点もありましたが、問題もありました。
・手軽に染毛でき、色持ちがいいこと。
・自然な色合いが出せること。
・人によっては「かぶれ」を起こすこと。
・当時、染料パラフェニレンジアミンは国内には存在しなかったこと。(明治45年劇物に収載)
・ヨーロッパでは当時禁止されていた染料。
大正期の白髪染拡大に影響を与えた出来事
(1)第一次世界大戦(1914年~1918年)
ヨーロッパからの化学原料が輸入できなくなり、そのため国産化が急がれました。特に染料工業については大正4年(1915)「染料医薬品製造奨励法」が制定され、国策の下で「日本染料製造会社」を設立、合成染料の国産化が図られました。
また、大正3年には過酸化水素水も国産化されており、染毛剤の原料が揃いました。
これにより、日本は白髪染製品の輸入国から輸出国となりました。(千代ぬれ羽、ナイス、るり羽など)
第8回で報告したように、大正3年の外務省文書「斉斉哈爾(チチハル:中国黒竜江省の都市)に於ケル日本売薬情況」には、千代ぬれ羽やナイスが「仁丹」と並んで輸出品目に登場しています。
(2)日本社会の動きについて(大正モダン)
大正時代に入ると女性の社会進出が目覚ましく、女髪結も流行の職業として注目されるようになります。
「髪型」や「化粧」が大いに発展した大正時代で、大正モダンとも呼ばれていたようです。
ただ、白髪染にどのような影響があったかについてはよくわかっていません。
しかし大量の新聞広告の出稿を見る限り、白髪染もこの時代に大いに発展したことは間違いないようです。
(3)関東大震災
大正12年の大震災は、首都圏に甚大な被害をもたらしました。
関東の白髪染メーカーは大きな影響を受けましたが、いち早く復興したところもありました。しかし、
白髪染の中心は関西、中部へと移っていきました。(大阪道修町、名古屋京町)
当時の「君が代」ポスターに「帝都復興には白髪を染めて若がへって働きませう」というのがあった事が伝えられています。
出典:「震災に学ぶ」展のお知らせ 六浦図書館階上にて 1999.10.20
<コラム> 新剤型の白髪染「初から壽」(かは旧字)
第10回で紹介した「初から壽」に新たな剤型の製品が見つかりましたので紹介します。今まで見つかっていたものは「液体一剤式」と「粉末一剤式」でしたが、今回のものは「粉末二剤式」です。ガラス瓶二本の様子から、「ナイス」のような「液体二剤式」かと思われましたが、使用説明書から確認されました。今までに「君が代」「黒蝴蝶」にこの剤型のものがあることは確認していましたが、製品パッケージが見つかったのは初めてです。この製品は、明治45年の毒劇物法改正後の大正初めに発売されたものと思われます。この剤型がのちの粉末三剤式「るり羽」につながっていったと考えています。
製品画像出典:usakokame 古民家薬局店番のお宝探し(2021,3,16)(注)この薬局は松江市(島根県)に250年続く山口卯兵衛薬局で、過去には「孔雀園」や「るり羽」なども紹介されていました。
3.大正時代の文献から(その2)
①美容関係
・大正8年 「美髪医学新書」 田中実義
・大正9年 「美しく健かな生き方」 成瀬慶子
・大正10年 「新艶粧録」 林 きよ
・大正11年 「結髪講義要領」 山上クニ子
・大正12年 「お化粧と髪の結ひ方」 三須 裕
・大正13年 「女性美の現し方」 石角春洋、村田俊子
・大正13年 「欧州土産新化粧法美髪法」 北原十三男
・大正13年 「科学的実際的最新美髪手入法」 芝山兼太郎
・大正13年 「実用家庭科学」 山本正三
・大正13年 「化粧美学」 三須 裕
・大正14年 「絶対無害の染髪料ネオス・ヘナ」 山野千枝子
・大正15年 「美容術講習録」 島田憲之助
大正後期になると、実際の製品や技術講習などの情報が多く登場するようになってきます。前期と同様に美容関係者は酸化染毛剤に対して否定的な見解ばかりで、むしろ染めないで自然なほうがいいと解説される方が多く、さらに「ヘナ製品」を推奨、発売する美容家も登場してきます。
②理容関係
・大正11年 「理髪法規と消毒」 三宅実蔵
・大正12年 「理髪法規と消毒」 岡田元一
・大正14年 「理髪医学」 矢沢泰亀
・大正14年 「理髪衛生学試験問答集」
理髪業者が白髪染を施術する考え方が書かれていますが、劇物配合の白髪染を染毛し料金を得ることは規則違反だが、染毛は理髪の一部であるとすれば、理髪師の白髪染も規則違反に当たらないと述べています。また、試験問答集には、技術を提供することは差し支えないが、自己の責任として毒物であることを注意することが最も良いとしています。
③一般啓蒙書
・大正9年 「百家実用重宝文庫」 神宮館出版部
・大正11年 「日用百科 知識の華」 新知識研究会
・大正14年 「日常生活常識の科学」柵山茂三郎
白髪染が身近になり、従来の一般向けの生活の知恵的な書籍は極端に少なくなっていきました。
④技術関係
・大正8年 「化粧品製造法」 平野一貫
・大正11年 「最新実用雑貨染色法」 加藤浅四
・大正12年 「実地活用化学製品製作法何でも御座れ」 鉄道之婦人社
・大正14年 「香粧品製造法」 平野一貫
・大正15年 「売薬処方全集」 松浦 斎
<コラム>安全性の追求(染料の改良)
国内に酸化染毛剤が登場する以前から、海外の文献には「オイガトール」「プリマール」といった名前が登場しています。これは主要な酸化染料「パラフェニレンジアミン」の安全性を改良した染料を使用した製品ですが、染毛力が弱いため日本では広まらなかったようです。こののち、染毛剤の「刺激の低減」を含めた安全性を訴求する特許が多数登場します。
⑤安全性関係
・大正15年 「皮膚と毛髪の新しい衛生」 岡村竜彦
4.大正時代の特許について
・大正元年出願 深澤儀作 染毛剤製造法
丹平製薬70年史によれば、白髪赤毛染「ナイス」の元となった特許のようです。
・大正2年 石崎勘次郎 石崎式白髪染
酸化染料と過酸化水素を組み合わせた、「液体式染毛剤」の基本特許と思われます。この特許後も多くの製品が出ており、未確認ではありますが、特許を放棄して過酸化水素の使用を開放したものと思われます。
・大正9年 金井良吉 粉末染毛剤
酸化染料を使用した、粉末一剤式染毛剤に関する基本特許です。
大正末期から昭和にかけて、いくつかの粉末染毛剤が発売されていますが、いずれも製造から1年ほどで真っ黒に固まってしまったようです。これを解決する特許が出されるのは戦後となります。
・大正10年 杉田武吉 くせ毛直し兼染毛液製造法
・大正14年 国司松治 白赤毛染製剤
・大正15年 服部重右衛門 毛髪染料
服部重右衛門は、明治38年に最初の酸化染毛剤「千代ぬれ羽」を作った人で、その後もいくつか特許を出しています。この特許は、染料、酸化剤を共に錠剤としたことが目新しく、昭和9年頃製品化して発売されています。
5.理容の歴史
江戸時代には、男性の髷を結う「髪結」が男の職業として定着していました。
明治になると断髪令により、「結う」から「切る」に替わり、西洋技術を導入してきます。
明治34年に「理髪営業取締規則」が出されますが、その内容は使用器具の衛生面に関することが主でした。理容師の資格に検定制度が導入され、そのため相次いで理髪学校が設立されます。
こうした中、明治38年に理髪師の団体として「大日本美髪会」が結成されます。
では、白髪染はどのような状況でしたでしょうか。
明治32年、北陸の理髪店で白髪染が流行したとの記事は、以前報告しましたが、法改正後の大正時代に入ると、客の求めには応じるが、積極的に拡大する様子は見られません。
しかしながら、「君が代」「元禄」などは、特定の理容院での染毛を始めており、昭和になってこの流れが加速されていきます。
・大日本美髪会について
明治34年「理髪営業取締規則」が出されましたが、理容業の近代化は進んでいなかったようで、
明治39年、太田重之助が東京に「大日本美髪会」を設立しました。
目的は「理髪業の近代化」で会員組織(会費制)と機関紙「美髪」の発刊、理容技術を文字で教える
理髪講習会を始めます。理髪技術だけでなく、衛生に関する講習も含まれ、修了者には資格も与えられました。
6.美容の歴史
江戸時代、女性の髪を結う「女髪結」が女性の職業として定着していました。
明治になると、日本髪より手軽な「束髪」が登場し、「女髪結」としての仕事が変化してきます。
さらに大正時代には西洋風の「洋髪」も登場し、また海外留学からの帰国者が美容院や美容学校を設立し、海外の技術を伝えています。
美容師は長らく理髪業の中で成長してきましたが、昭和32年の「美容師法」により独立することとなりました。
明治から大正、昭和にかけて著名な美容師、美容研究家が登場します。資生堂のグロスマン、巴里院のマリー・ルイーズ、丸の内美容院の山野千枝子、男性では三須裕、北原十三男など数多くありますが、白髪染のかかわりについてはよくわからない点もありますので、次回の昭和編で報告したいと思います。
メニューには「へヤダーイング(白髪金髪赤髪染)の表記が見られます。
7.安全性に関して
・製品開発
安全性(かぶれない)を標榜した製品の開発
着色料のような製品
・注意表示(使用上の注意について)
使い方の変遷
使用上の注意について
8.まとめ
大正までの白髪染の歴史をまとめたものです。
・大正時代の果たした役割
明治末期に登場した酸化染毛剤を改良・進化させ、また新たな「かぶれ」ない製品の開発への動きが加速します。
酸化染毛剤の剤型の種類、解説については第9回で解説していますが、大正時代での変遷について簡単に説明します。
・「千代ぬれ羽」に代表される液体1剤式製品は大正時代も継続して販売されています。
・「ナイス」に代表される液体二剤式製品は、国内ではあまり広がらなかったようです。その理由としては
染液が垂れる、ガラス瓶2本のため価格が高いがあげられます。
この点を改良した粉末二剤式製品として、「初から寿」が今回発見されました。
・さらにコストを下げるものとして、「るり羽」に代表される粉末三剤式製品が登場します。
・さらに大正末には、不完全ではありますが粉末一剤式製品も登場します。
以上のように15年の短期間に、白髪染の種類が大きく広がりました。
・大正時代を代表する製品
大正の中頃に登場した「るり羽」は、その後昭和31年に「パオン」が登場するまで、白髪染市場の主役でした。同時代の「元禄」は平成5年まで製造されていました。海外でもこうした剤型の製品は皆無で、長らく輸出品の主役であったようです。
・理美容界における白髪染
文献・資料から見ると、理美容界では酸化染毛剤に関しては批判的なものばかりではありますが、メーカーによる染毛サービスや理容店向け商品の販売なども見られ、どのようなタイミングで酸化染毛剤を取り入れていったのかについては、まだ資料が確認されていません。
昭和時代にそのあたりの資料があるか調査を進めたいと思います。
<コラム>「白髪赤毛染」について
明治以降に発売された、名前の確認できる製品名を見るとあることに気が付きます。表記は異なりますが、「白髪赤毛染」「志らが赤毛染」「白毛赤毛染」などと、ほとんどすべての製品に書かれていますが、ある時期から「しらが染」「白髪染」「志らが染」「白毛染」と「赤毛」を抜いた表記に代わってきます。この意味する所を調べてみると、白髪染が時代とともに変化していく様子が見られるようです。詳しくは昭和編で解説したいと思います。
<参考資料>
・「斉斉哈爾(チチハル)に於ケル日本売薬情況」 大正3年 外務省文書
・過酸化水素(オキシフル) 三共百年史 2000年
白髪染の調査・研究をしています。ガラス瓶の発掘はできませんが、古い資料の発掘には自信があります。
住まい:愛知県 性別:男 年齢:68歳 趣味:家庭菜園