今回は、昭和45年から昭和64年を中心に、戦後のヘアカラーの展開について紹介します。
昭和30年代は、日本の染毛剤の歴史において画期的な時代となりました。それは白髪染からヘアダイ、ヘアカラー(おしゃれ染を含む)、へと製品の幅が拡がったことです。
従来の黒一色から様々な色の製品が登場し、美容の技術も大きく進歩し新たな時代の幕開けとなりました。
また薬事法の改正により、染毛剤、パーマ剤などが医薬部外品となり、業界団体の役割も大きくなりました。
また海外メーカーの参入や製品の安全性の課題も明らかになりました。
そこで、製品や美容業界、更には工業会について解説していきたいと思います。
<コラム1> 「ヘアカラー」の呼称はいつから?
「ヘヤダイ(ヘアダイ)」が「ヘアカラー」と呼ばれるようになったのはいつごろからでしょう。
英国は「ヘアダイ」、米国は「ヘアカラー」とか、年配の方は「ヘアダイ」、若い人は「ヘアカラー」などと大雑把な捉え方もありますが、国内でいつからかははっきりしません。
ちょうど、ヘアダイ工業会が名称をヘアカラー工業会に改めるとの決議が昭和45年の総会で出ましたので、この年を「ヘアカラー」と名称を統一した日にしてはと考えましたが、いかがでしょうか。
1.戦後の染毛剤について
(1)剤型の変化による推移
<戦前> <昭和30年以降>
・粉末1剤式(ナゴン) ⇒ ・改良粉末1剤式(パオン、ビゲン)
・粉末3剤式(るり羽、元禄)⇒ ・液体2剤式白髪染、おしゃれ染
・昭和20年代、医薬品、化学品のメーカーが白髪染の一般市場に参入。
・昭和30年代、新たな粉末1剤式製品の登場。業務用のヘアダイも発売された。更に、界面活性剤の技術を応用した新たな液体2剤式白髪染製品が登場。
業務用としては、ヘレンーチス(アリミノ)がヘアダイを発売した。
一般用としては
昭和33年4月 プラスマンヘヤーカラー、へヤーブリーチ
昭和33年8月 ヘレンカーチスヘヤーダイ、オイルブリーチ
昭和35年2月 ヘレンカーチスシャンプーダイ、シャンプーブリーチ
<ヘレンカーチス社について>
当時、アメリカで第4位の化粧品メーカー。日本のアリミノと技術提携、合弁会社の設立、化粧品、染毛剤の発売。10年で提携解消し、ヘレンカーチスジャパンとして活動する。国内の染毛剤市場に与えた影響は大きい。
・昭和40年代、一般用シャンプータイプの液体2剤式おしゃれ染製品が登場。
第一次ヘアカラーブーム
30年代から業務用中心に発売された「ヘレンカーチスヘアダイ」に対抗する、新たなおしゃれ染の液体製品が山発から発売され、第一次ヘアカラーブームの中心となります。
シャンプータイプの液体白髪染も登場
おしゃれ染で後れを取ったホーユーは白髪染に特化した「ビゲンヘアカラー」を発売し、大きなブームとなります。更に、明るい白髪染として「しらが用おしゃれ染」も登場して、髪色全体が明るめにシフトしていきます。
・昭和50年代 ・・・クリームタイプ製品
美容業界ではその使いやすさと匂い、手触りの良さからクリームタイプが主流となっていきますが、一般向けにもいくつかのメーカーが発売しています。
一般ヘアカラー市場の状況
一般向けの製品は主に薬局薬店で販売されていましたが、その発売元は以下の三種類に分類されます
・薬系企業 ・・・戦前からの企業を中心に薬問屋経由する。
・化粧品企業・・・化粧品メーカーが一般向けにチェーン店で販売。
・外資系企業・・・昭和30年以降、多くの外国メーカーが参入
昭和54年ごろの市場には上記のような3種類の企業がヘアカラーを発売していた ようです。現在主流のドラッグストアの登場はこの頃からでしょうか。
・昭和60年代 ・・・早染め、男性用製品
この頃から、一般市場では短時間で染まるものや、男性用としての使い方を追求した 製品が登場してきます。もちろん、こうしたコンセプトは既に大正時代から登場していましたが、新たな剤型と組み合わせて、市場に訴求していきます。
(2)染毛剤市場の拡大
戦後、急速に復興した白髪染業界ですが、昭和23年の生産数量が720万~780万個と推定されています。(昭和23年、染毛剤懇話会理事長談話より)
また、40年後の昭和63年頃には約8000万個(経産省出荷統計)となっています。
戦後ずっと拡大傾向が続いていました。
(3)製品包装形態の変遷
最初の酸化染毛剤は液体タイプで始まりましたので、小箱にガラス瓶と使用説明書のみという簡単な包装形態でした。その後、昭和30年代中ごろから製品容器にプラスチックの使用が始まり、瓶以外にも手袋、コームなども小箱に同封されていきました。
そのころから、小箱の中に必要なものがほぼ収納されていたようです。
(4)髪色の変化
昭和31年のおしゃれ染登場以降に関して、詳しくは次節で述べますが、黒一色から多様な色調の登場は、ヘアダイ、ヘアカラー市場の新たな方向性を感じさせてくれましたが、結局は奇抜な色はすぐに飽きられ、黄味系や赤味系の褐色から栗色が主流となっていったようです。
ファッションやヘアスタイルなどと違い、簡単に色を変えることができないため、昭和40年代には「ウィッグ、ヘアピース」といった「かつら」の流行もあったようです。
(5)販売チャンネルの変化(一般用と業務用)
戦前ごろまでは、薬局・薬店が販売の中心で、理髪店では市販品を持ち込んで染毛してもらうことが多かったようです。その後市販品を「徳用サイズ」として理髪店向けに販売も行われていったようです。昭和50年代以降、ドラッグストアの台頭で薬局・薬店の比重が少なくなっていきます。
また、昭和30年代以降、美容院商材を扱うディーラーにも染毛剤が加わり、一般品とは別ルートでの販売が開拓されていきました。
2.おしゃれ染の展開
明治以降、白髪染一色と思われていた染毛剤も、実はごく一部におしゃれ染のようなものが存在したことがわかっています。勿論、海外ではすでにおしゃれ染が一般向けにも発売されていたようです。
(1)戦前の状況
明治時代以降、髪を染めるのは「白髪染」のみと思われていましたが、実は上流階級や外国人に対して、「ヘナ」や海外製品を使用していたようで、大正時代の美容室の新聞広告では「金髪」が施術メニューに挙げられています。
(2)昭和30年代
一般市場でおしゃれ染製品が登場したのは、昭和31年のアリミノ「ヘレンカーチスヘアダイ」が最初のようです。(当初は業務用で、一般向けには昭和33年から発売)
その後、国内メーカーからもおしゃれ染の発売が続きますが、国内の過酸化水素濃度の問題もあり、ブリーチ剤と合わせての発売が多く見られます。
業界の様々な努力があるものの、消費者の反応はあまりなかったようです。(メーカーによるチャームガール、マネキン、講習会などが盛んに開催されていたようですが)
(3)昭和40年代
昭和41年レブロン「カラーシルク」、昭和42年の「フェミニンヘアカラー」と、おしゃれ染の発売が続き、この頃からおしゃれ染の第一次ヘアカラーブームが始まったようです。
一つには、シャンプーのように手軽に染めることができると謳ったこと。法改正で過酸化水素の濃度が高くなり、明るさが出しやすくなったことが挙げられます。
(4)その後
しかし、まだヘアカラーに慣れていない世代が、明るいおしゃれ染に挑戦すると、当然明るくなりすぎたり、ムラになったりといったことが起きたのでしょうか。
ブームはあまり長く続かなかったようです。
結局、傷んだ髪への対応や技術はその後の美容業界の発展へとなっていったようです。そのため、ヨーロッパのメーカーは「クリームタイプ」の製品を主力にするところが多くなり、国内でも導入が進みました。現在ではほとんどクリームタイプが主流です。
これ以後、一般向けのおしゃれ染、正確には液体式の製品で大きなヒットが見られないのは、この頃のことが影響しているからでしょうか。
また、白髪染においても「しらが用おしゃれ染」として、より明るいものが登場し、白髪染の色調、明るさも拡大していきます。
3.美容業界の動向
(1)海外メーカーの参入
1956年のヘレンカーチスに始まり、「ミスクレイロール」、1963年のロレアルまで多数の外資メーカーの参入が見られました。特にヘアカラー工業会が設立された昭和35年以降、国内の美容業界への進出が顕著です。
他方、戦後美容業界に参入した国内メーカーも数多くあります。
工業会の会員名簿からその創業年を挙げると、アリミノ(昭和21)、リアル化学(昭和20)、ルノン化学(昭和30)、近代化学(昭和30)、ナンバースリー(昭和26)、中野製薬(昭和28)、ミルボン(昭和35)などがあります。
(2)第一次ヘアカラーブーム後の対応
おしゃれ染ブームの後、美容業界にいくつかの課題をもたらしました。
・黒髪への回帰
2014年のネット記事に「<黒髪回帰>ナチュラル志向 AKB48の影響も」がありました。
実は、この当時の<黒髪回帰>は第2回目で、1980年代のものが最初のようです。
明るく傷んだ髪の対極に「黒髪」が求められたのでしょうか。また、傷んだ髪を補修するための製品も登場し、その一つが後の「ヘアマニキュア」と呼ばれる製品につながります。
・髪を痛めにくい剤型の製品
染毛剤についても、液体式のおしゃれ染から、ヨーロッパで使われていたクリームタイプの製品が採用され、現在はほとんどのメーカーから発売されています。
(3)80年代のヘアマニキュア
1978年、アメリカのセバスチャンが発売した「Cellophanes」は髪に透明なセロハンの膜で感触を改善するとのコンセプトでヒットしたようです。それを1984年、日本に紹介したのがナンバースリー「セロフェイン」で、これが日本に初めてヘアマニキュアを紹介とHPにでています。
どうやら、日本でのヘアマニキュアの始まりは色ではなく「感触」からのようです。
これより前に、国内では1981年アリミノの「メイクアップカラー」が酸性カラーの始まりのようです。
この酸性カラーと酸性ベースの透明「セロフェイン」が組み合わさり、「ヘアマニキュア」となったような気がします。
(4)ヘアカラーリストの登場
1993年、国内初のヘアカラーリスト誕生(imai HP)
ヘアカラーが進んでいたアメリカでは、以前からカラーリストは存在していたようです。
<コラム2>資生堂のヘアカラーについて
資生堂のヘアカラーが知られるようになったのは。1991年の「資生堂カラーリンス」ではないでしょうか。ところが、調べてみるといろいろわかりました。
・大正11年(1922)東京銀座に美容科、美髪科を設立。
美髪科主任にミス・グロスマンを招請。
・昭和9年(1934)「資生堂美容室」開設。
・製品の歴史
(1)昭和33年(1963)「サーティーデイカラー」発売。
一剤式の液体製品で、一度染めると30日色が持つ、染毛料のようです。
(2)昭和35年(1965)「資生堂ヘアダイ」発売
チェーン店用の液体二剤式製品です。
(3)昭和50年(1980)「コーミングカラー」発売
白髪用の酸性染毛料です。
(4)昭和52年(1982)「資生堂ヘアカラー」発売
液体二剤式製品で、パッチテストキットを初めて採用しました。
(5)昭和56年(1986)「資生堂ナチュラルヘアカラー」発売
(6)昭和57年(1987)「資生堂ヘアマニキュア」発売
(7)昭和61年(1991)「資生堂カラーリンスナチュラル」発売
(8)昭和61年(1991)「資生堂AFヘアカラー」発売
なお、ここでは一般向け製品について取り上げましたが、業務用に関しても海外メーカーやブランドを持っているようですが、今回は省略しました。
4.工業会の活動について
(1)発足から昭和43年まで
昭和35年、「ヘヤダイ工業会」設立
アリミノの田尾氏を会長に、美容メーカー8社で団体を設立。
アリミノ(ヘレンカーチスと提携)、イソ化研、セフテイ商会
山発産業(パオンデラックス)、クラウン産業、フタバ化学、
日本製薬販売(大東化学、テルミー化粧品)、パオン本舗(TVZ工業)
主な活動としては、ヘアダイコンテスト、陳情など。
(2)昭和43年、会長交代。
田尾氏急逝のため、山発山本氏が会長職を引き継ぐ。
美容業者中心から、染毛剤業者全体の団体としての転換が求められる。
その背景には、
・染毛剤原料規格、申請要領の整備
・使用上の注意の統一
5.海外メーカーの動向
前回紹介しましたが、1963年の化粧品自由化以前から、国内への海外メーカーの参入が始まっていたようです。
・染毛剤に就いては戦前から美容室単位で少量の輸入を行っていたようです。
例えば、「オレアル ヘンナ」「エジプシャン ヘナ」
・さらに戦後は商社が窓口となっての販売。
セフテイ商会:ルウ、ペルマ
・さらに代理店契約で製造・販売する。
アリミノ:ヘレンカーチス
小林コーセー:ロレアル
6.「使用上の注意」について
「使用上の注意」の変遷
現在手元にある、最も古いと思われる「使用説明書」にも、簡単な注意事項が書かれています。
その後の説明書を見ても、製品ごとに書き方や内容が異なっていたようです。ここでは時代ごとに注意事項の変化を見ていきます。しかしながら、発売年が明らかな「使用説明書」が少なく、注意書きの内容も、変化してきていますので、年代とずれがある場合があります。
(1)明治38年以前(金属染毛剤の時代)
・地肌につかないこと
・(染液などが)タレて、眼鼻に入らないよう
・頭に腫物、外傷のある人は使用しない
・地肌が弱くかぶれ易い人は使用しない
当時の金属染毛剤には強いアルカリを使用したものが多く、そのため地肌や粘膜への注意が多くなされているようです。
(2)明治38年以降(酸化染毛剤の時代)
・髪は前洗い(油気があると染まりが悪い)
・地肌につかないこと
・頭皮に腫物や皮膚病のある人は使用しない
・滴が垂れないように
当時の酸化染毛剤は染毛力、髪への染着力が弱いため、すべて前洗いを勧めています。この時登場した液体製品の場合、染液の粘度が低く垂れやすかったことがわかっています。そのため「粉末2剤式」といった形式の製品も登場しました。
(3)大正期(酸化染毛剤の時代)
・髪は前洗い(油気があると染まりが悪い)
・地肌につかないこと、生え際には白粉を塗っておく
・頭皮に腫物や皮膚病のある人は使用しない
・滴が垂れないように
・乙剤(過酸化水素水)の開封の際に注意(液が飛び出す場合がある)
国内最初の過酸化水素水を使った製品で、液だれ以外に開栓時の注意まで追加されています。
(4)昭和期(昭和20年以前)
・髪は前洗い(油気があると染まりが悪い)
・パッチテストの表示がある
・頭皮に腫物、以前かぶれた人は使用しないこと
・応急処置法の紹介(外用薬、内服薬)
この頃の製品には、他に「君が代」にもパッチテストが書かれています。ただ他の国内メーカーの製品には表示がないので、調べたところこれらの製品は海外輸出向けで、アメリカなどはすでにパッチテスト表示が義務化されていたようですから、表示を取り入れたようです。
(5)昭和期(昭和20~45年)
昭和45年に「使用上の注意事項」の通知が出るまで、各社の表示にはばらつきがあったようですが、結局下記の点を中心に通知文が出され、統一がなされました。
・パッチテスト48時間
・目に入らないよう注意
・かぶれに対する治療法、薬の紹介を削除
もちろん、これ以後幾たびもの追加が行われています。
<コラム3> 珍しい「黒蝴蝶」エンボスのガラス瓶について
今までご覧いただいたように、昭和40年代ごろまで、白髪染製品の容器はガラス瓶で、その剤型ごとに、ほぼ決まった形状がありました。
・液体製品はとっくりのような瓶
・粉末製品は小型の丸薬瓶のようなもの
しかしながら、白髪染には「着色料」もあり、それらには様々な容器があったようです。
今回紹介するのは変わった形のガラス瓶ですが、直接見ていないので断定はしにくいのですが、おそらく「白髪染 黒蝴蝶 着色料」と推定しています。
「黒蝴蝶」の製品は「大、小、特大、並」といった大きさを示す表示と、「煉製、粉製」のような剤型を示す表示のほか、「軽便」といった手軽さを示すものがあります。おそらくこれが、着色料ではと思います。
詳しい方はご指摘願います。
<参考資料>
・粧工連 粧工連コスメティックレポート 昭和54年現在市販されている家庭用ヘアカラー
・日本粧業 昭和30年~40年
<終わりにあたって>
長らくご愛読いただきありがとうございました。
一年がかりの第18回が終了しました。2019年5月スタートしましたが、十分な資料もなく不十分な解説で、分かりにくい点が多くあったのではと今更ながら反省しております。
やっと昭和の終わりにたどり着き、この後をとも考えましたが、「ちょっと詳しい白髪染の歴史」は今回でひとまず終了したいと考えております。
さて、新年気分を新たに、今後は時代をさかのぼりつつ、その時代の社会状況を通じて染毛剤の姿をもう少し詳しく見ていきたいと思います。
「もうちょっと詳しい白髪染の歴史」
として再出発の予定です。またよろしくお願いします。
白髪染の調査・研究をしています。ガラス瓶の発掘はできませんが、古い資料の発掘には自信があります。
住まい:愛知県 性別:男 年齢:68歳 趣味:家庭菜園