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大正時代の代表的な白髪染 「るり羽」「露麗髪」
画像出典:ブログ「川原の一本松」2011.11.16
1.はじめに
しばらく本筋から離れていましたので、ここで江戸時代以降の白髪染の流れを簡単に振り返ってみます。
江戸時代・・・製品は見つかっていませんが、元禄年間(1700年頃)、大阪屋藤兵衛が白髪染を製造していたとの新聞広告があり、これがおそらく国内で最も古い製品ではないかと思われます。
江戸時代には二種類の白髪染が、それぞれ決まった店で販売されていたようです。
「白髪染」(染まらないもの)は小間物商で、「白髪染の薬」(染まるもの)は薬種商といった具合に、現在の「化粧品」と「医薬部外品」の分類に似ています。
内容としては、それぞれ着色料と金属染毛剤と思われます。
この時代、よく知られている「白髪染 美玄香」は着色料で、
また、海外(オランダ)からは「白髪染の薬」が輸入されていたようです。
明治時代・・・明治15年頃、国産の白髪染(染まるもの)が発売されました。
この時代に名称は「白髪染」で統一されました。例えば、着色料の代表的な製品としての「玉からす」は手軽な化粧料との説明があります。
ところで、多くのブログや企業、業界団体のHPでは、明治の中頃まで「お歯黒」を使った白髪染が主流であったとの記述が見られますが。しかし、いろいろ調べた結果この頃の製品は鉛や銀などを使用したいわゆる「金属染毛剤」が主流でした。これに関しては<コラム>で解説します。
明治38年、国内初の酸化染毛剤「千代ぬれ羽」が発売されると、その後この酸化染料(パラフェニレンジアミン)を使った製品が主流となっていきました。
画像出典:ブログ「拾うたんじゃけぇ」2019.4.2
さて、大正時代以降も酸化染毛剤が主流ですが、この時期「白髪染」には二つの課題が登場します。
(1)理容、美容の状況
明治時代には理容が発展し、海外からの技術も導入されました。さらに明治末には理容から独立して「美容室」を掲げるところが出てきて、美容に関して海外の技術、情報を持った人たちが国内での活動を始めます。
どうやら当時の資料から見ると、市場では一般向けの「酸化染毛剤」が大量に発売されていますが、理・美容関係の方々はこの「酸化染毛剤」に反対の立場をとっていたようです。
大正から昭和にかけて「髪」に関する情報は、「髪型」や「パーマネント」などに集中しており、理・美容界における白髪染の状況に関しては情報が不十分です。その後「酸化染毛剤」が理・美容界にどのように取り入れられていったのか、昭和時代で検証してみたいと思います。
(2)安全性の課題
明治末に登場した酸化染毛剤は、「安全性」に関して深刻な問題を提起しました。それまで国内では使われたことがない「酸化染料」による安全性問題のため、関係法律も改正されました。しかしながら染料自体はそのまま使い続けており、昭和に入ってから酸化染料を使用しない、いわゆる「安全染毛剤」といった製品も登場しますが、安全性の課題は今日まで続いています。
今回はこうした問題の背景、技術の進歩など大正時代に白髪染がどのような展開をしたかについて文献等を紹介していきます。
2.大正時代の文献から(その1)
①美容関係
・「赤毛と縮毛の手当に就いて」 遠藤波津子 (大正元年)
・「家庭実用美容術」 樋口繁次 (大正4年)
・「誰にも出来る美容法自在」 松下 昇 (大正4年)
・「新美装法」 藤波芙蓉 (大正5年)
・「美容法の極意」 高橋毅一郎 (大正5年)
・「ひとりでできる家庭の美顔術」 マリイ・ルウイズ(大正6年)
・「白髪染の危険」 婦人衛生雑誌 (大正6年)
・「上品でいきな化粧の秘訣」 平岡静子 (大正7年)
著名な美容師、美容家がいくつも資料を残しています。
前にも述べたように、いずれの資料でも「酸化染毛剤」については否定的な見解ばかりです。これはヨーロッパにおける酸化染料の問題に対する対応を考慮してのものと思われます。つまり、ヨーロッパで禁止されている染料は国内に於いても使うべきではないとの意見と思われます。
明治38年からの酸化染毛剤発売以後、多くのかぶれ事故が発生、それにより明治43年の新聞記事がきっかけで、各地で白髪染製品の販売停止騒ぎが起きます。
以下に新聞記事全文を掲載します
明治43年12月21日
東京 報知新聞
「不良薬品の検挙 白髪染薬品の取締」
近来白髪染の化粧法男女の間に流行し美顔術あるいは理髪床等の副業とし白髪染剤の売行盛んなるが是等は多く其筋の許可を経たるものなれど近く其筋にて薬品精査の結果著しき害毒を発見するに至れるは極めて注意すべき事柄なり元来白髪染剤は早くより我国にて行はれしものは完全に染色せざりしに数年前欧州にて発売されし薬品「パラフェニーレンジアミン」を原料とせる一種の薬剤は染色確実なるより非常の好評を博し以来我邦にてもこれに倣ひたる白髪染を製し売薬部外品とし其筋の手続きを経て製造販売の権利を既得せるもの七人に及び当時は在来品に勝る新剤として喝采を得つつありしも少時にして欧米において先づ該品の有害なるを発見し直ちに発売を禁じ次いで我邦にもまた該品の使用者に中毒頻々たるを発見し取敢へず警視庁は昨年来新たなる製造販売の出願を許可せず各警察をして化粧品店、理髪店等に就て諸種の白髪染剤を徴発し長島技師をして試験せしめしに孰れも「パラフェニーレンジアミン」を原料とせる有害品なること的確となり且つ徴発せる売品中多数の潜り品をも発見され是等は近く取締規則違反とし告発せらるるべく又一方発売を許可されたるものと雖も其儘放置すべからざれば化粧品研究会に向て是に替るべき無害品を案出するにあらざれば断然従来の白髪染を禁止すべしと警告を與へしが研究会は荏苒(じんぜん)今日に至るも良剤を提出せざるより或は近く一般流行の白髪染も使用を禁止さるゝに至るべく尚ほ該剤に因る中毒の兆は初め染料の毛髪に染み込みし際一種の瓦斯を発散し此の瓦斯が皮膚に触れて其人の体質に依り或は焮衝(きんしょう:炎症)を起し或は湿疹を生ずる等の症状を呈するものなりといふ。
例えば、大正5年の「新美装法」では「現下、美顔術屋などで染毛に用ふるものは、生石灰と炭酸鉛の合剤で・・・(中略)生石灰合剤と共に、これ等の染毛薬(酸化染毛剤)も断じて排斥すべきものである。」と述べています。
結局、明治45年法改正により、白髪染の販売方法変更などで対応しました。
②理容関係
・「化粧品及其製法」 大日本美髪会 (大正2年)
・「理容美髪の栞」 大槻吉蔵 (大正6年)
一般市場では酸化染毛剤が発売されていましたが、理容界の立場はどのようであったのでしょうか。
例えば、上記の資料には鉛や銀などの金属染毛剤の処方や扱い方が説明されていますが、「以上挙げたる
染髪剤は皆劇毒物の含有せるもので有りますから、諸君は成る可く白髪染を使用せざる事を希望します。」と述べています。
ただ、白髪染を購入したお客を対象に、理髪店で染めるサービスを告知する広告も見られ理容向け製品の登場の先駆けとなった事例も見られます。
③一般向け啓蒙書
・「秘密病の新療法」 音尾正衛 (大正2年)
・「学理応用大魔術宝典」 内山誓一 (大正2年)
・「秘術奇法:実行容易」 北久保健治 (大正3年)
・「家庭之実益:便宜重宝」 山本栄吉 (大正3年)
・「簡易万物製法典:大益無限」 北久保健治 (大正3年)
江戸時代から続く民間療法的な白髪対策の冊子、百科事典的なものもあります。内容的にはほとんど江戸時代と変わらないものもあるようです。手軽な白髪染が発売されている一方、こうした書籍が販売されているということは、なお根強く支持している層もあったことを示しています。
④技術関係
・「誰にも出来る化粧品の拵へ方」 吉田徳司 (大正元年)
・「化粧品製造法」 実業研究会 (大正2年)
・「簡易化粧品製造法」 吉田富岳 (大正3年)
・「家庭応用化学工芸の栞」 浅野作太郎 (大正3年)
・「実用化学工芸品製造全書」 長野宗四郎 (大正3年)
・「実地応用化学工業品製造法」 日本工業品研究会(大正4年)
・「売薬部外品売薬類似品製造備考 赤城勘三郎 (大正4年)
・「製造顧問:理化応用」 鴨田脩治 (大正5年)
・「日本商工通信社秘伝書」 日本商工通信社 (大正5年)
・「実験工業品製造法講義:理化応用」鴨田脩治 (大正6年)
・「売薬製法全書」 川崎近雄 (大正6年)
・「化粧品製造法講義」 日本薬学協会 (大正6年)
・「袖珍皮膚科学」 坂口 勇 (大正6年)
・「実用化学工業品製造法」 吉川勝弥太 (大正6年)
大正に入ってから新製品が多数発売され、白髪染の社会的な関心も高まってきて製品紹介だけでなく、手軽に製造する方法なども紹介されています。
例えば、「袖珍皮膚科学」では当時発売されている製品名、内容が多数紹介されています。
⑤安全性関係
・「白髪染料ニ就テ」 太田正雄 (大正3年)
・「染毛剤に就て」 小磯勝次郎 (大正2年)
・「白髪染ニ因スル急性結膜炎ノ二例」 木本雄二郎 (大正2年 医事新聞)
・「白髪染料急性結膜炎ノ三例」 鹿野武十 (大正3年 眼科臨床医報)
・「白髪染ニ因スル球外視神経炎ノ一例」蒲生市太郎 (大正4年 中央眼科医報)
・「白髪染ニヨル中毒例」 堤友久 (大正5年 眼科臨床医報)
・「白毛染ニ依テ来リタル急性眼瞼結膜炎ノ数例ニ就テ」若山久一(大正7年 中央眼科医報)
酸化染毛剤が発売された当初は、かぶれ事故などが新聞で取り上げられましたが、使用者が増えるにつれ上記文献のように「眼の事故」の報告も多く見受けられます。
やはり製品を一人で使用するには難しい点が多かったのでしょうか。
実際「使用説明書」に目の周りの使用に関する注意事項が取り上げられるようになるのは戦後になってからのようです。
尚、美容の項で紹介した大正7年「上品でいきな化粧の秘訣」の中で、「眉毛を染める折には一層の注意が肝心で、脂肪で薬の周りへ広がるのを十分防がないと眼が赤くはれ上ることがあります。」と記述されており、当時は眉毛やひげも白髪染で染めていたことが分かります。
3.技術開発について
大正時代には様々な白髪染製品の改良がおこなわれ、多くのヒット製品を出しました。
酸化染毛剤開発のポイント
・手軽さ(簡単・便利)
金属染毛剤に比べ使い方が簡単になったこと。整髪料のような使い方の提案。一人で染毛ができるようになったこと。
例えば、「千代ぬれ羽」は髪に塗布して乾かし、10~12時間後洗い流す使い方です。
「染付けたる後は十二時間すぎて洗ふべしたとえば朝染て夜洗ふか夕方染て翌朝
洗ふべし」
・染毛時間の短縮
空気酸化で10時間以上かかったものが、過酸化水素水を使うことで20~30分で染め上がるようになったこと。
例えば、「ナイス」は髪に塗布して20分で見事に染まる。
「甲乙液を混ぜ・・・(中略)皮膚に付かぬ様注意して其液を塗るのです。ニ三十分で乾きますと、すっかり美しい黒髪となるのです。染まった後は唯自然に乾かせば宜いのですが乾いてから一度石鹸か髪洗粉で髪をお洗いなさい。」
・染毛力が向上する
従来の白髪染は染毛力が弱く、そのため染める前に髪を洗い、脂分を洗い落としておく必要がありましたが、乾いた髪にすぐ使用することができるようになりました。
「染る前に毛を洗はずとも染りますが、一度脂や垢を洗ひ落して後、染れば一層よく染り永くはげません。」
・安価であること
「るり羽」のように、少品種で大量生産できる製品が登場してきました。
・仕上がりの色
金属染毛剤は不自然な色合いでしたが、酸化染料では見た目が自然な仕上がりになったこと。
・国内の状況
上記のポイントで製品開発が進むにつれ、あらたな製品形態が特許の中に登場してきます。
大正期に出された特許のうち注目するのが金井良吉の「粉末染毛剤」に関するものです。
それまでの白髪染は酸化剤に過酸化水素を使用したものが大部分でしたが、この特許では粉末の酸化剤(過ホウ酸塩)を使用しており、それにより製品自体の粉末化が可能になりました。
戦争で中断しましたが、昭和31年に山発から「パオン」が発売されました。
過ホウ酸塩は当時すでに家庭用漂白剤として普及し始めていたようで、それを白髪染の酸化剤に転用したわけです。しかしながら、こうした粉末染毛剤はヨーロッパにもなく、日本独自のものであることは興味深いことです。
具体的にどんな製品が最初であるかはまだ調査中ですが、現在のところ「クロカミ」(富松製薬)の大正末期~昭和初めが有力な候補と考えています。
画像出典:ブログ「ジリジリ」2012.5.3
もう一つの方向は安全性に関するもので、これに関しては昭和時代で解説します。
・ヨーロッパの状況
白髪染に関してはヨーロッパの方が進んでいましたが、国内の資料から、酸化染毛剤が登場する前は日本と同じ、金属染毛剤が主流であったようです。
例えば、当時(明治の終わりごろ)パリで三剤式製品が発売されていることが、上記の文献にいくつか見つかります。
(3)製品紹介
大正期には「千代ぬれ羽」や「ナイス」と同タイプの製品が数多く発売されましたが、この時代を
代表する製品といえば「るり羽」でしょうか。粉末三剤式タイプの最終型となるもので、知名度では
「元禄」がありましたが、数量的には「るり羽」が最も多く販売されました。
画像出典:ブログ「ひとめぼれレトロ日記」2015.2.28
「るり羽」がトップブランドになった理由があります。
・製品のアイテムが少ない、少品種大量生産であったこと。
・海外輸出が多いこと。
これにより「るり羽」は戦前、市場の3割ほど得ていたようです。(山発資料より)
4.法律関係
明治時代になってからの白髪染に関連する法律を時系列に表示しました。特に「染毛剤」は医薬品とは別の
分類(売薬部外品)となってから、幾度か表示も変更されてきています。
内容など詳しくは昭和時代に解説します。
白髪染取締規則の変遷
・明治10年(1877)毒薬劇薬取締規則
・明治13年(1880)薬品取締規則
・明治20年(1887)日本薬局方 施行
・明治22年(1889)薬品営業並薬品取締規則(薬律)売薬部外品の区分に「染髪料」が収載
・明治32年(1899)売薬規制外製剤取締規則「染髪剤」として収載
・明治34年(1901)売薬部外品取締規則
・明治44年(1911)売薬部外品営業取締規則
・明治45年(1912)毒物劇物物営業取締規則
・大正3年(1914)売薬法 施行
・大正5年(1916)売薬部外品取締規則「染髪」が収載
・昭和7年(1932)売薬部外品取締規則「売薬部外品」を表示する
<コラム>「お歯黒」での染毛について
白髪染の歴史に関する多くのブログや企業・団体の解説の中で、「明治時代、おはぐろを使って10時間かけて染めていた」との記述がよく見られます。
例えば「全理連(全国理容生活衛生同業組合連合会)」のHP(理容の歴史)には、「明治の中ごろまでは、
タンニン酸と鉄分を用いた『おはぐろ式』の白髪染めが行われていました。このおはぐろ式では染め上がる
まで10時間もかかっていたそうです。」と記述されています。
また、日本ヘアカラー工業会のHP(近代日本の染毛剤)にも、「・・・それまでは、タンニン酸と鉄分を用いたいわゆる『おはぐろ』を利用し、10時間程度かけて染めていました・・・」と書かれています。
このように頭髪に関連する業界のHPに全く同じことが書かれていますから、多くのブログはこれが事実であると考え、引用されたのではと考えられます。
果たして、明治期にお歯黒を白髪染として使われていたのでしょうか。
そこで明治以降の「お歯黒や白髪染」の文献を多数当たりましたが、これを裏付ける資料は見つかりませんでした。そこで見つかったのは「鉛、銀、鉄などを使った」金属染毛剤に関するものばかりでした。
お歯黒を白髪染として使っていたことは「否定」できませんが、ほとんどの文献が明治時代には
「金属染毛剤」が使われていたこと示しているので、「明治時代には鉛や銀を使った金属染毛剤」が主流であったとするのが正しいような気がします。
白髪染の調査・研究をしています。ガラス瓶の発掘はできませんが、古い資料の発掘には自信があります。
住まい:愛知県 性別:男 年齢:68歳 趣味:家庭菜園