1.はじめに
さて、昭和時代の初めを代表するのはこの染毛剤、「黒若」と「納言」です。この二つは時代を反映するタイプの製品だからです。詳しくは後の章で解説します。
ところで、前回大正時代編で掲載を忘れた資料がありましたので紹介します。
・大正時代の白髪染製品一覧
大正時代には剤型の多様化が進みました。粉末二剤式、粉末三剤式など現状の製品でその種類が確認されているのはあまり多くありません。今後の資料収集、分析が待たれます。
・欧州の染毛剤状況
江戸時代にオランダからの染毛剤輸入後、明治時代になってからも輸入は続きますが、ヨーロッパの当時の状況についてはあまりわかっていませんでした。国内にある資料から、明治時代頃のヨーロッパの染毛剤の状況について調べてみました。ヨーロッパでは「千代ぬれ羽」のような、液体一剤式のようなものは登場していないようですし、日本のように真っ黒に染める必要がないと考えていました。ところで、昭和7年の「輓近応用化学実験叢書第一編」中にヨーロッパと日本に関する記述がありましたので紹介します。
「元来欧州人は金髪を尊ぶのに反し、東洋人は所謂濡羽色の漆黒色を尊ぶので、欧州の染毛剤を直ちに我国に使用することが出来なかった。仏蘭西人の毛髪が比較的東洋人の毛髪に類似するといふので、仏国の処方が用いられたようである。」とあります。
果たして、明治末にはフランスの白髪染「ラクール」が輸入されていますが、これにはパラミンが使われていたようです。仏蘭西人と東洋人の毛髪の違いがあまりないとのことですが、実際どうであったかもう少し調べてみたいと思います。
ヨーロッパやアメリカでは、染毛剤は日本と異なった歩みをしていましたが、戦後新たな形で海外メーカーの参入が起こります。国内における海外メーカーの動きについては、次回以降で解説する予定です。
<コラム1>
・万国博覧会に出品した白髪染
大正の初めごろから海外に輸出されていた白髪染ですが、大正3年の白髪染「ナイス」の広告に、南洋スマラン大博覧会で銀杯受賞とありました。スマラン博覧会は大正3年8月20日から11月22日まで、インドネシア中部ジャワ州の州都スマラン(SEMARANG)で開催されました。当時としては国際博覧会に白髪染の出品が珍らしかったようですが、国内での「勧業博覧会」では白髪染が出品されていたようです。なおこの時の記念メダルがヤフーオークションに出品されていました。銀杯と関係があるかどうかは不明です。
2.関東大震災以降の流れについて
震災後の復旧も急ピッチで進められましたが、その後の白髪染にどのような影響があったかについていくつか考えてみました。
(1)生産拠点の移動
白髪染に関連する薬種商、問屋、関連業種などは日本橋を中心に広がっていましたが、当然震災の影響を受け、復旧までしばらくかかったようです。そこで影響が少なかった、関西、中部の薬問屋街(道修町、京町)さらには富山、徳島など製薬が盛んな地域では、その後白髪染の新たな製品がいくつも発売されています。
大阪・・・丹平商会(ナイス)、山発(るり羽)
名古屋・・朋友商会(元禄)、旭薬品(テート)
富山・・・ラーベー商会(ラーベー)
徳島・・・富松製薬(クロカミ)、帝国製薬(わか君)
(2)低コスト製品の台頭
大正から昭和にかけての代表的な製品のガラス瓶を並べてみました。お気づきのように山発、朋友は「丸瓶」、他の3社は「角瓶」です。剤型の違いはありますが、使用している中味の原料はほぼ同じようなものですから、製品コストが低いのはガラス瓶が一本の粉末三剤式となります。さらに、この丸瓶は機械瓶と言われる大量生産品。これにより山発は「るり羽」1種類だけにも係らず、昭和の初めにはトップシェアとなっています。
また、朋友も低価格を目指して「元禄」にこの丸瓶を採用しました。(最近、「元禄」の丸瓶より前のものと思われる「とっくり型瓶」が発見されています)一方、君が代が機械瓶となるのは戦後になってから、黒蝴蝶の丸瓶も戦後になってからのようです。
(3)山発、朋友の台頭
生産のみならず販売方法やルートに関しても、両者は異なった対応をとっています。山発は石井成功堂の「るり羽」を販売するのみで、しかも単一商品のためコストがかからない。輸出が中心で国内の広告宣伝もほとんどありません。方や朋友は問屋ルートを持たず、直接取引中心で新聞広告をほとんどしていません。従来のナイスや君が代、黒蝴蝶などは、大手問屋ルートと大量の新聞広告を投入して拡大してきましたが、そのルートが中断した影響により、山発、朋友が業界の1,2位を占めるようになります。震災後、短期間に白髪染業界の姿が変わったのは、こうした背景があったと考えています。
<コラム2>
・「るり羽」について
ところで、この二つの写真はどこが違うでしょうか。
詳しく話すと長くなりますので、結論から言いますと、石井成功堂の頃(明治末から昭和10年頃までは「るりはね」と呼び、昭和10年、石井成功堂を合併した山発は、以降は「るりは」と呼んでいたのではと考えています。
他社では「君か代」が「君が代」に、「二羽がらす」が「二羽からす」に替わった例がありますが、表示が同じで読みを変えた初めての例です。
しかし、「るりはね」の名前が浸透したので、あえてルビをとったとも考えられますが、いかがでしょう。
それでは、ルビのない「るり羽」はどう読んでいたのでしょうか?
答えは使用説明書の英語表記にありました。
「Ruriha」です。
つまり、合併後は「るりは」と呼んでいたと考えられます。
ある文献で、「二羽からす」(ふたばからす)、「千代ぬれ羽」(ちよぬれば)と読みを書かれているのを見かけましたが、本当にありうるのかいちど調べてみたいと思います。
3.戦争の足音
昭和の初めから大陸での戦争がはじまり、国内での白髪染生産にも影響が出てきました。
そこで、業界団体を結成し国に陳情する機運が生まれました。更に海外展開も加速していきました。
(1)染毛剤工業組合の結成
昭和13~14年 支那事変の拡大に伴い、原料調達などを目的
とする工業組合結成を目指して、永尾真一郎(万両本舗)が東奔西走し
意見統一のための活動を行う。
昭和14~15年 日本染毛剤工業組合結成のための準備会時代
・染毛剤原料配給の陳情
・生産高に応じた寄付金集め
昭和16年4月10日 日本染毛剤工業組合創立総会(上野、精養軒)
昭和17年2月 同組合を認可
昭和19年7月20日 同組合解散(統制組合法による組合に改組のため)
昭和19年8月12日 医薬部外品統制組合設立
昭和22年2月26日 日本染毛剤工業会設立
昭和22年2月28日 統制組合解散(商工協同組合法の施行に伴い)
昭和24年1月24日 日本染毛剤工業会解散
昭和24年1月24日 染毛剤懇話会設立
戦後、日本染毛剤工業会と名前を変え再出発しましたが、染毛剤工業組合時代に原料配給の取りまとめなどを行っていたことが抵触し、設立が認められず、新たに「染毛剤懇話会」の名称にてスタートしました。
染毛剤懇話会の活動内容については次回で解説します。
(2)海外展開について
大正3年の外務省の資料でありましたように、「千代ぬれ羽」や「ナイス」の他、「るり羽」はヨーロッパから中東、インド、東南アジア、香港と、また「元禄」は中国、満州などに販路を広げていきました。しかし戦争が激化すると輸出が出来なくなりましたが、「元禄」のように満州の支店での製造が続けられていたことを示す製品が見つかっています。
<コラム3>
・「みやこ染」について
この「みやこ染」は白髪染ではありません。繊維を染めるための染料です。昭和10年代の新聞広告を見ていると、毎日のように「みやこ染」の広告が登場します。古着を染め直して再利用しようとの事でしょうか。戦争が進むにつれ、広告の内容も厳しい調子になっていきます。不思議なのはそうした状況でも、白髪染の広告はしっかり登場していることです。
画像参考:「どこでも空・昭和新聞広告部」(2017,10,14)
4.技術情報(特許から)
昭和の初めから9年までに出願されたものをまとめました。安全染毛剤と呼ばれる新たな製品群や、名古屋を中心とした新剤型の製品群などが特許上に登場しています。
5.文献資料
①美容関係
明治以降、日本髪から洋髪、束髪と髪型の変化につれ、大正時代ではさらに美容意識も高まってきたようで、
昭和に入り関連する文献数は非常に多くなりました。
海外の技術を習得した女性が、帰国して美容院や更には美容学校も設立。雑誌での美容相談では有名な先生が多数輩出しています。しかし内容を見ると美容界では、一般市場で用いられている「パラミン」に対する抵抗が強く、昭和の文献でも「ヘナ」が最も多く、次いでお歯黒式と呼ばれる「非酸化型」の製品が続きます。
また、真っ黒な白髪染に対して、「自分の毛色に近い色に染めるのが一番理想的」(千葉益子、婦人倶楽部昭和5年)と、髪染に対する意識の変化を訴えています。
美容界ではこの頃既に「自然な髪色」「自然な黒色」が広がってきていたようです。
更に、昭和に入りパーマネントも広まり、「パーマネント読本」(昭和11年)では、白髪染との関係も説明しています。
②理容関係
美容関係が「ヘナ」やお歯黒式の白髪染を紹介しているのに比べ、理容関係では大正時代から変わらず、鉛や銀を使った金属染毛剤に加え、パラミン使用の酸化染毛剤を取り上げている文献がほとんどです。
③一般向け啓蒙書
染料の紹介以外に、染毛剤の染み抜きの方法を解説した文献も登場しています。(新式衣類洗濯法全集、昭和2年)当時も白髪染による汚れには困っていたようです。
④技術関係
白髪染に関して詳しい資料が多い中で、一番まとまっていてわかりやすいのが「雑貨染色法 下巻」(昭和11年)です。「毛髪染色の略史」の項目では、それまでのものと比べ白髪染の歴史が一番まとまっていると思いますので、参考にされるといいと思います。
6.安全な染毛剤の追求
明治末からの酸化染毛剤による「かぶれ」事故に対応する方法が幾つか登場してきます。製品だけでなく、表示などにも工夫が行われたので紹介します。
(1)染料面での対応
①パラミン誘導体の検討
パラミンに刺激などを低減する目的で、スルホン基などを導入した染料を用いた処方がいくつか検討されました。以下の二つは代表的なものです。
・オイガトール(Eugatol)
・アウレオール(Aureol)
ドイツでパラミンが禁止されたので、染料の改良がおこなわれ効果のあるものが作られました。
しかし、残念ながら日本人に合う染毛力とはなりませんでした。
②非パラミン染料を使用した染毛剤
・「納言」(なごん)・・・パラアミノフェニルスルファニル酸主剤
・「ベナン」・・・アミドジフェニルアミン主剤で三共(㈱)の特許品
・「笑髪」(えがみ)・・・パラアミドフェニルズルファミン酸主剤
これらの製品は大学との協力、大手製薬企業、発明家などが関与していますが、ベナンの広告でも書かれているように、黒過ぎず自然な染め上がりと書かれています。
③非酸化染毛剤
・「ヘナ」
美容界では盛んに取り上げられていますが、時間や費用の面で広く普及することはなかったようです。
製品としては、フランスから輸入していた「オレアル・ヘナ」「エジプシャン・ヘナ」「ネオス・ヘナ」などが知られています。
・「黒若」(くろわか)
大阪の若園吉雄が、昭和8年ごろ開発した二剤式の「非酸化型」白髪染です。一剤には可溶性硫化金属と鉄塩、そして五倍子、没食子を含む第二剤からなる。
全国で染毛講習を展開し広く宣伝していました。
・「ビーマン」
千葉の古沢栄一が昭和12年に開発した、三剤式の「非酸化型」白髪染。第一剤には糖類、アルカリ剤、第二剤に鉄塩、第三剤には五倍子、没食子を含む。
同時期に同名の製品が登場しているが、この非酸化型製品と同一かどうかは調査中です。
この製品は、戦後二剤式「ネオ・ビーマン」に改良されました。
・「烏翠膏」(うすいこう)
粉末一剤式の「非酸化型」白髪染で、粉末にお茶の煮だした液を加えて使用、一昼夜ほど染毛に時間がかかるようです。
(2)注意表示での対応
①パラミン登場以前の注意表示
「頭に腫物及び皮膚病のある方は用ゆべからず」といった一文のみです。パラミンの酸化染毛剤が登場しても、しばらく注意表示は変わらずこの表現のままでした。
②昭和4年頃から文献に注意表示が登場。
文献にはパッチテスト方法や注意事項、更にはかぶれた時の対処法も記載されています。塗布場所は同じようですが、放置時間がバラバラなのはどういったことでしょうか。
③昭和13年頃、
この頃既に、山発「るり羽」や「君が代」にパッチテ<スト、かぶれ対処法など、ほぼ統一的な表示が見られます。
まだ統一的な注意表示がない時代、どのように各社が対応していたのか興味があります。もう少し調べてみたいと思います。
<コラム3>
・白髪染の添加剤について
特許などには「刺激の低減」をうたったものが多くみられますが、理容関係の文献では酸化染毛剤を使うときは、「生麩」を多く入れる。とか、タンニン酸を加えるとかぶれにくくなるといった記述が見られます。また、「千代ぬれ羽」の改良品で、明治45年頃発売されたものには、薬液を調整時、塩一つまみ入れるとよいとも書かれています。効果の方は期待できないと思いますが、当時としては必死で対応していたのではと思います。
まとめ
(1)関東大震災後の変化
・生産拠点の移動(大阪、名古屋、地方都市など)
・世代交代(君が代、黒蝴蝶、ナイス →山発、朋友)が進んだ。
・粉末三剤式の剤型が主流となったが、安全性を追求した製品が幾つか登場した。
(2)戦時体制下に染毛剤組合を結成。戦後の団体再結成につながった。
(3)白髪染の海外展開が加速した。
<写真参考>
(君が代)2014.6.26
・ブログ「ひとめぼれレトロ日記」(るり羽)2015.2.28
・「あんていかーゆ便り」(黒蝴蝶)2018.5
今回は、大戦までの20年間を取り上げましたが、こうした流れを見てきますと、戦後山発や朋友が最初に発売した新製品が「安全性を追求した染毛剤」であったのは、この頃が出発点ではないかといった思いがします。次回はその戦後から20年を取り上げます。
白髪染の調査・研究をしています。ガラス瓶の発掘はできませんが、古い資料の発掘には自信があります。
住まい:愛知県 性別:男 年齢:68歳 趣味:家庭菜園