第17回 昭和時代の白髪染(その2)

今回は戦後の染毛剤動向について、昭和45年ごろまで調べてみました。

この期間は「白髪染」が「ヘアダイ」へ移行した重要な時期です。

(注)「白髪染」は昔からの白髪を染める染毛剤。「ヘアダイ」はおしゃれ染め(髪を明るくする)を含む染毛剤を表します。

さらに美容製品の登場から、ヘアダイ工業会の結成まで国内で様々な出来事がありました。ヘアダイが登場する原動力となったのは何か、どのような背景があったのでしょうか。

パオン
パオン
ビゲンホーユー
ビゲンホーユー
ヘレンカーチス・トルートン
ヘレンカーチス・トルートン

1.はじめに

前回、戦前の染毛剤「黒若」と「納言」を紹介しましたが、これらが戦後の製品にどのような影響を与えたかについて紹介します。

非酸化染毛剤比較表

(1)「黒若」とは

非酸化染毛剤、いわゆる「おはぐろ式」と言われるタイプのものです。昭和8年頃発売され、この少しあと、昭和13年頃に同タイプの「ビーマン」(共同製薬所)が発売されています。

黒若
黒若

(2)その影響

これはパラミン製剤の製品が発売されて以降、かぶれないことを謳った製品のひとつですが、この「黒若」は全国各地で講習会を開催。しかも2剤式で、かなり好評であったようです。

しかしながら、かぶれる人が通常の人より圧倒的に少ないですから、あまり広がるとは思えません。

実際、戦後再発売された様子がありません。

(3)「納言」とは

非パラミン系染毛剤で、染料にパラフェニレンジアミンに類似したものを使用して、安全性を高めているようです。さらに粉末一剤式で、水で溶くだけという手軽さを訴えています。

ちなみに、「るり羽」「元禄」は加熱したり、または熱湯を加えて溶く必要があります。

納言
納言

(4)「安全染毛剤」の脅威とは

昭和の初めごろから、安全性を志向した製品、いわゆる「安全染毛剤」と呼ばれるものが、当時いくつか発売され、特に「納言」は新聞広告を大量に投入して知名度を上げていたようです。

また「黒若」は全国各地で講習会を開催し、着実に浸透していたようです。

当時の山発と朋友は白髪染市場の1,2位を占めていましたが、安全性を志向した製品を全く持っていませんでした。それゆえ、両社にとってこれらは大きな脅威となったと考えられます。

その結果、両社が戦後最初に発売した製品が、非酸化染毛剤でした。

2.戦後の状況

戦後の白髪染、ヘアダイ業界をリードしてきた3社について、その活動状況を紹介します。

山発、朋友、アリミノの戦後の活動戦後製品史

 

(1)事業再開

昭和24年、日本染毛剤工業組合が染毛剤懇話会と改め発足しました。その時の記事から当時の様子を紹介します。

「(前略)戦争末期においては原料の入手が途絶えあまつさえ戦火のため殆んど生産は壊滅状態におかれていたが、終戦を迎えるや、21年5月には大部分のメーカーは生産を再開するに至り、23年度においては推定60万打乃至65万打まで生産が回復し、戦前の4~5割の線に追いついており・・・」(日本粧業 昭和24年1月29日、山本理事長談話)

日本粧業新聞
日本粧業新聞

このように生産体制はかなり回復しましたが、市場の需要に比して、原料の調達が思うようにならず、さらに製薬メーカーなども続々染毛剤に参入するといった、混乱した状況のようでした。

(2)戦後最初の製品は

山発、朋友両社とも昭和21年から生産を再開、一部輸出も始めていたようです。さらに将来を見通して生産設備の拡充、研究開発人員の確保も始めていました。

(ア)山発の場合

昭和31年、非酸化染毛剤の「マロン」と粉末一剤式「パオン」を発売しました。

「マロン」は「黒若」と同じ2剤式で、現在も「マロン マインドカラー」として続いています。

パオン」と「マロン」広告「パオン」と「マロン」広告

粉末一剤式「パオン」については、別項で解説します。

(イ)朋友の場合

山発と同じく、昭和31年、非酸化染毛剤「クローゲン」を発売しました。おそらく戦前の非酸化染毛剤「ビーマン」を参考に開発したのでしょうか、3剤式の製品でした。

しかも昭和33年に「ビーマン」が2剤式に改良され「ネオ・ビーマン」として発売。

これにより3剤式は「クローゲン」のみとなり、その後の改良を断念し、別の方向(1剤式染毛料)を検討したようです。

クローゲンクローゲン

(3)アリミノの活動

昭和21年に研究所を設立し、パーマ剤の製造をはじめ、さらに会社設立後は、コールドパーマ用剤を販売します。このころ海外の著名な美容家(アル・テーツ、ミス・ドーラン、ロジェ・ヴァレリーほか)が来日、全国で講習を行います。その際、ヘアダイも行われ好評を博しました。

これに着目した創業者田尾は、将来のヘアダイ発展を予期して、米国ヘレンカーチス社と提携を行います。

そして昭和31年、国内最初のヘアダイ「トルートン」を発売します。

ヘレンカーチス トルートン
ヘレンカーチス トルートン

3.粉末染毛剤の役割

戦前から発売されていた「粉末一剤式染毛剤」ですが、戦後の「パオン」や「ビゲン」とはどこが異なるでしょうか。それぞれの発売とその後の展開について調べました。

(1)粉末染毛剤開発経緯

粉末一剤式の特許は、大正9年金井良吉によって出願されています。(特許第39754号)

内容成分も染料(パラフェニレンジアミン)、酸(酒石酸)、酸化剤(過ホウ酸塩)、糊料とほぼ現在のものと同じ処方になっています。大正末には製品も登場し、戦前には数種類発売されていました。

しかし保存性に問題点もあり大きな広がりとはならなかったようです。

そうした中、昭和24年出願の岩城道也の特許が注目されました。これは酸化剤、過ホウ酸塩の結晶水を除去し、粉末染毛剤の保存安定化をもたらすというものです。

(2)「パオン」の展開

山発もいろいろ検討していましたが、結局岩城の特許を取得することで「パオン」を完成させました。

しかも山発は「パオン」にはもう一つの目的を持たせていました。

それは後に発売する「パオン2番」「パオン3番」をミックスして使用することで異なる色調を作り出すこと、つまり「ヘヤダイ」と同じような使い方を導入することで、将来的にヘアダイの発売を目指すことにありました。

昭和34年に発売した「オイルブリーチ」は、当時の過酸化水素濃度上限が3.5%のため、過酸化尿素を加えて5%とし、ブリーチ力を高めたものです。

これを使って髪を明るくし、その後パオンと2番、3番をミックスして使う方法です。

そして昭和35年に業務用の液体式「パオンデラックスヘヤーダイ」の発売となりました。

 

<コラム>ヘアダイのミックス使用について

この時代のヘアダイは色数、色調も少なく、そのためお客様に合わせて1剤をミックスして色調を調整していたようです。

たとえば、昭和36年の美容雑誌の特集記事には、「日本女性に似合う3つの色」の出し方について、当時の国内外のメーカーに参加してもらい、コンテスト形式でいろいろな処方を掲載しています。

雑誌記事

 

(3)「ビゲン」の展開

では朋友はどうでしたでしょうか。山発から18か月遅れて「ビゲンホーユー」を発売しましたが、その後名称を「ビゲンA」とし、さらに「ビゲンB」「ビゲンC」を追加。

それぞれの色調を「黒色、黒褐色、くり色」とすることで消費者に分かりやすくしました。

さらに、昭和25年に市販されていた合成糊料CMCを使って、水で溶くだけで使える製品が完成しました。

この後、海外向けの粉末製品に注力し、美容向けヘアダイの開発は意外な展開となりました。

<コラム>一剤式染毛料の開発

3剤式の非酸化染毛剤「クローゲン」の改良をあきらめ、向かったのは1剤式の染毛料(化粧品)です。おそらく、戦前から販売されていた繊維用染料「みやこ染」を参考に、直接染料を使った染毛料を完成しました。それが「マケン」です。

さらにアルカリ剤にコールドパーマの成分を使用し、パーマと染毛ができる製品として、「ハーレルウェーブヘアカラー」を美容向けに発売しました。

こうしたタイプの製品は今までになく目新しいものでしたが、当時の美容ではおしゃれ染めのような明るさを求める製品が中心でしたので、あまり浸透しませんでした。

マケン

 

4.海外メーカーとの提携

昭和30年前後から海外大手のメーカーと提携して、国内で販売する例がいくつか見られます。

締結年がわかっているものを挙げてみます。

昭和29年、アリミノと米国ヘレンカーチス社 

ヘレンカーチス製品
ヘレンカーチス製品

 

昭和32年、テルミー化粧品と米国クレイロール社

ミスクレイロール
ミスクレイロール

昭和38年、小林コーセーとフランスのロレアル社

イメディア
イメディア

ほかにも、ルウ、ペルマ、イゴラなどの欧米メーカーが貿易自由化以前から国内代理店を通して販売していたようです。

<コラム>当時の国内メーカーの製品

海外のメーカーが次々に参入してきた昭和30年代前半には、国内でもヘアダイを製造するメーカーが登場してきています。それぞれのメーカーについては詳しい情報がないのですが、名前と製品を紹介します。

・クラウンヘアカラー(クラウン産業)

クラウンヘアカラー

・プラスマンヘアダイ(日本製薬販売)

プラスマンヘアダイ

・スぺオン(TVZ工業)

スぺオン

なお、これらの会社は昭和35年の「ヘアダイ工業会」設立当初に参加しています。

 

5.ヘアダイ工業会設立の背景について

アリミノはヘレンカーチス社と提携し、昭和31年から製品を発売していきますが、ヘアダイを普及するためにいくつか課題を抱えていました。

(1)薬事法上の課題

昭和28年から、染毛剤は「医薬品」の分類となっていました。白髪染に関しては、長年薬種商などを通じて薬局で販売していたため問題はありませんでしたが、美容材料を扱う問屋は、化粧品が主体のため、医薬品の染毛剤を扱えるところが限られる状況にありました。

①染毛剤の医薬部外品への移行

そこでアリミノの田尾は、染毛剤の医薬部外品への移行陳情を考え、当時のヘアダイ製造販売業者に声をかけ、その集まりを結成、これをヘアダイ工業会として昭和35年発足させました。

さらに白髪染の団体である「染毛剤懇話会」とも連携を図り、翌年薬事法改正、部外品への道を開きました。

②染毛剤の使用上の注意事項の統一

更に、染毛剤懇話会としては戦前から問題となっていた染毛剤の使用上の注意事項の統一に関しての陳情も厚生省に行っています。

例えば、パッチテスト表示もその一例です。

(2)過酸化水素濃度の問題

先に述べたように、当時は過酸化水素水3.5%で、これに過酸化尿素を加えていましたが、

これを過酸化水素5%へとの陳情を、染毛剤懇話会と共同で行いました。

さらに昭和38年には過酸化水素水6%ととなり、現在の水準となりました。

(3)ヘアダイ普及のための支援活動

昭和30年代ごろから様々な美容団体が結成され活動していましたが、ヘアダイの普及拡大を目指して、コンテストや流行色の提案などにもこうした団体の協力は欠かせませんでした。

6.国産ヘアダイ開発の経緯

白髪染に関しては、酸化染毛剤についてかなり資料も残されていますが、ヘアダイに関してはわかっていないことがあります。例えば、国内製品は何を参考にしたかということです。

これまでの白髪染液体製品は、染料水溶液を増粘剤で粘度をしていました。

そのため酸化剤の過酸化水素水を加えると粘度が低下する問題が起きました。それを回避するため、混合液にでんぷんや小麦粉などを混ぜて使用することも書かれていました。

ところが、昭和30年代に登場したヘアダイの液体製品は基材が全く異なります。

界面活性剤を主成分とした処方で、過酸化水素水を加えると、適度な粘度となります。30年代の外国製品を参考に処方を作ったのではと推測します。

(1)最初のヘアダイ製品

①山発の場合

昭和34年に一般向けの「オイルブリーチ」を発売。

昭和35年に美容向けの「パオンデラックスヘヤーダイ」を発売。

昭和37年に一般向けの「パオンローヤルA(自然色黒)、B(黒褐色)、C(栗色)」を発売。

パオンローヤル
パオンローヤル

②朋友の場合

昭和38年に一般向けの「ハイビゲンA(自然な黒)、B(黒褐色)、C(栗色)」を発売。

昭和40年に美容向けの「ハイビゲンデラックスヘアダイ」を発売しました。

ハイビゲンデラックス
ハイビゲンデラックス

 

<コラム>一般用、業務用の共通ブランド問題について

山発の「パオン」ブランド、朋友の「ビゲン」ブランドが一般向け製品と美容向け製品の両方に使われていることに対して、美容界には違和感があったようです。結局両方の製品は数年で美容専用のブランドに統一されました。

両社とも美容界への接点があまりなかったことから、ブランド名以外にも色番号表示でもしばらく混乱があったようです。

 

          山発              朋友

・美容向け  パオンデラックス    ・美容向け   ハイビゲンデラックス

・一般向け  パオンローヤル     ・一般向け   ハイビゲン

 

(2)本格的美容ブランドの誕生

①山発の場合

昭和39年「アン・ヘアカラー」を発売。

アンヘアカラー」
アンヘアカラー

②朋友の場合

昭和44年「アシュレーカラートーン」発売。

アシュレーカラートーン
アシュレーカラートーン

③アリミノの場合

アリミノは昭和29年にヘレンカーチス社と提携し、昭和31年から国内の美容、一般向け製品を発売してきましたが、昭和38年にヘレンカーチス・ジャパン社が設立され、二年後にはアリミノとの提携を解消。その後アリミノブランドで美容・一般向け製品の発売を続けました。

アリミノクイックカラー
アリミノクイックカラー

7.第一次ヘアカラーブームについて

昭和30年代に入って、海外のおしゃれ染め製品が少しずつ定着。また美容室のメニューにも広がりを見せ、一般にも髪を明るくする意識が広がってきたようです。

そうした中、昭和41年にレブロン「カラーシルク」、翌年に山発の「フェミニンヘアカラー」が発売されると、おしゃれ染めのブームが起こったようです。

当時の「フェミニン」の勢いは大変なものがあったようです。

しかしながら、「白髪染は簡単にはやめられないが、おしゃれ染めはできる」との言葉通り、短期間でその勢いを失っていきました。

美容院の技術が一般品では求められなかった、おしゃれブランドに「白髪染」が加わったからなど、多くの理由が挙げられましたが、世代のニーズが合わなかったのでしょうか。

その後、現在まで各社からおしゃれ染めを含むブランドがいくつも登場しましたが、「フェミニン」の再来はありませんでした。30年後に茶髪ブームが起きるまでは。

カラーシルク
カラーシルク
フェミニンヘアカラー
フェミニンヘアカラー

<コラム>一時的なブーム?

確かに「フェミニン」は数年で勢いをなくしましたが、実はこの時もう一つ別のブームが起きていました。当時のヘアダイメーカーも真剣に参入を考えていたようです。

それは「かつら」です。かつら工業会(現在は日本毛髪工業協同組合)が設立された、1970年頃にブームがあったようです。なぜ「かつらブーム」だったのかよくわかりませんが。

 

8.日本人の髪色について

今回のテーマ「白髪染」から「ヘアダイ」を考えるにあたり、一つ気づいたことがあります。

それは、戦後の製品に「赤毛染」の表示がなくなったことです。

明治以降、発売された白髪染製品のすべてに「白髪赤毛染」と表示されていました。

明治末期の資料にも「自然な黒髪」「自然色」といった表現は見られましたが、赤毛に関してのコメントは見かけなかった気がします。

推理するに、この期間日本人の赤毛がなくなったのではなく、赤毛を染める必要がなくなったのではないでしょうか。明るめの髪が少数派の時は赤毛染が必要であったのが、明るい髪色が普通になれば染める必要も、表示する必要もなくなります。日本人の髪色は、「緑の黒髪」から「茶色の黒髪」へと急速に変化してきているようで、白髪染の表示の変化からもわかるような気がします。

赤毛表示広告
赤毛表示広告

<まとめ> 

・白髪染は粉末一剤式が主流となり、現在も続いています。

・ヘアダイが登場し、一時おしゃれ染めのブームを作りました。

・白髪染の染毛剤懇話会、美容団体のヘアダイ工業会が設立されました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です