1.はじめに ~酸化染毛剤の時代が始まる~
明治時代・前期では「金属染毛剤」が主流でした。そして後期には、3つの歴史的な出来事が起こります。
(1)国内初の酸化染料を使った白髪染の登場
(2)国内初の過酸化水素を使った白髪染の登場
(3)白髪染ガラス瓶の登場
特に(3)に関しては、ガラス瓶に興味がある人しかわからない内容ですが、第9回から詳しく解説する予定です。それぞれの白髪染が、どのような背景で登場し、どのような変遷をたどったか、更にこの酸化染料がもたらした影響についても調べてみました。
2.酸化染毛剤について
(1)酸化染毛剤とは
「現在世界的にもっとも広く使用されているもので,一旦染まると色持ちが約二か月と長期的に持続します。染毛力に優れていますが、有効成分の「酸化染料」が体質や肌状態によってはかぶれの原因になるため・・・」(日本ヘアカラー工業会HPより)
とあるように、酸化染料が酸化剤(空気、過酸化水素など)で酸化され毛髪内部に定着することで発色します。この辺りは企業のHPやブログにも詳しく説明されています。
剤型の表記について
今後登場する白髪染の形状をわかりやすく表現するために、以下のように表記します。
・液体一剤式 ・・・染料を含む状態が液体のもので、酸化剤を使わないもの。
・液体二剤式 ・・・染料を含む状態が液体のもので、過酸化水素と組み合わせたもの。
<コラム1>白髪染の発売年について
今まで調べた中で、白髪染の発売年が明らかなものは非常に少ないです。そうした中、ごく少数ですが「発売広告」を掲載している白髪染があります。
(A)明治41年2月、みどりの露発売広告
これは液体一剤式の製品であることが別資料から判明しています。
(B)大正2年、ふじみどり発売広告
これは、五分間染と謳っていますが、着色料のようです。
(2)酸化染毛剤登場の背景について
第6回でヨーロッパの状況について報告しましたが、19世紀終わりごろには、ドイツ、フランスの特許もあり、製品化が目前であったと予想されます。実際、明治40年(1907)にはロレアルの前身が製品化しています。国内において白髪染需要はあっても、当時の製品は使い方が面倒(頭皮につけない、保温して染める)などの理由で、あまり広まっていなかったようです。
ですから、使い方が簡単で、ある程度の効果がある製品が登場すれば、ヒットする下地はあったようです。
<コラム2>染毛時間に対する意識は?
多くのブログやHPでお歯黒の染毛時間の長さが取り上げられています。酸化染毛剤ではこの時間が五分の一に短縮されたためヒットしたと解釈されています。しかし「千代ぬれ羽」は染毛時間が12時間と、お歯黒とほとんど変わりません。また、酸化染毛剤以前の金属染毛剤の中には、染毛時間が短いもので30分といった製品もありました。ですから、当時の人にとって、染毛時間の長短はあまり重要ではなかったようです。
(3)最初の酸化染毛剤はなに?
そうした中、酸化染毛剤が登場しましたが、その時期を「明治38年」としました。これは新聞広告、業界紙、特許、文献などからの情報をもとにしています。ただ、最終的に「なにが?」となるとまだ十分な資料がありません。
ここでは、二つの案について検討してみました。
ⅰ「君が代」明治38年説について
多くのブログ、HP,書籍には「志らが染君が代」が創業したのが明治38年である、だから君が代が明治38年に発売された、としていますが、掲載している製品写真は、第1回の冒頭でも指摘した通り、戦後のものです。一方、業界年鑑によれば「創業者山本吉郎平が、明治38年志らが染君が代を創製・・・」とありますが、別の資料では、君が代創業時には麦わら帽子の製造をおこなっていたともあり、更にこの時代の新聞広告、業界広告、文献などが見つかっていないので、君が代明治38年説が確定するにはさらなる調査が必要と考えています。
ちなみに、君が代と並んで当時の製品に「黒胡蝶」(宅間末広堂)があります。宅間末広堂は明治20年代の創業ですが、黒胡蝶の発売は別資料で明治42年と判明しています。
ⅱ「千代ぬれ羽」明治38年説について
千代ぬれ羽に関しては、様々な資料があります。創業者が明治38年頃、白髪染の研究をしていたこと、明治39年の広告、「千代ぬれ羽」の意匠登録、更には明治38年の発売を示す新聞広告もあります。明治38年発売時のものではありませんが、最近製品パッケージ一式が発見されました。
これらから見て、「千代ぬれ羽」が最初の白髪染であると思います。
3.「千代ぬれ羽」について ~初の酸化染料を使用した白髪染~
(1)製品について
液体一剤式製品
特徴のある小箱の中に、液体の入ったガラス瓶と説明書からなる。
ガラス瓶にはカラスのエンボスがあり、大正2年の広告にも同じものが見られます。
よって、今回発見された千代ぬれ羽は大正2年以降のものです。
内容成分としては、酸化染料(パラフェニレンジアミン)、アルカリ剤、糊料、水です。
当初の使い方は、洗った髪に液体を塗り、乾かしたら12時間放置。洗い流して髪を乾かす。
大正2年では、乾かしたら6,7時間放置し洗い流して乾かすとなっており、 「例えば、朝出かける前に塗り、夕方帰宅後に洗髪する。また夜塗って、朝洗髪してもよい。」との表現は削除されている。そして、かぶれの対応として、塩一つまみ加えるとの記述が加わっている。
発売元は服部松栄堂(東京市浅草区蔵前片町五丁目)で、大瓶30銭、小瓶17銭。
<コラム3>白髪染の使い方
金属染毛剤の場合と同様に、当時の白髪染は染毛力が弱く、頭皮の皮脂、髪油などの影響を受けやすいため、事前に髪を洗っておく必要がありました。そのため頭皮を傷つけ、炎症などの原因となったようで、初期の説明書にも注意として書かれています。三剤式製品が登場する大正期からは、現在と同じく髪の前洗いがなくなっていきます。
(2)製造者の服部重右衛門について
「君が代」の山吉商店も「千代ぬれ羽」の服部松栄堂も、ともに白髪染、医薬品などを製造販売していた様子もないのに、なぜ白髪染を発売したのかの疑問でした。
日本塗料協会発行の「塗料人評伝関東の巻」には、業界に貢献した人物の履歴を記したものですが、そこに千代ぬれ羽の創業者、服部重右衛門の記述がありました。「重右衛門は藍染めの黒田市之助商店に奉公、独立後、染毛剤の研究をしていたが、友人に誘われワニスの研究、開発にも没頭することとなる。この時期が明治38年である。」
藍染めのような染料、そしてワニスの塗料の知識が重右衛門に白髪染、そしてダイヤモンドワニスを発売させたようです。そののち重右衛門はいくつかの白髪染製品や特許も出しており、白髪染における重要な人物であります。おそらく重右衛門としては、のちに登場する、過酸化水素と組み合わせたものを発売しようと考えていたと思われます。しかし、過酸化水素はドイツからの輸入しかなく、そこで単純な液体一剤式を採用したのではと推察します。
(3)「千代ぬれ羽」の変遷
明治38年~43年
製品は大ヒットするが、徐々に後発メーカーの製品が登場する。
明治43年12月
報知新聞の記事から白髪染の販売が停止する。
明治45年5月
法律改正により、新たな許可の「改良 千代ぬれ羽」を発売するが、評判にならない。
大正2年
従来の「元禄模様」千代ぬれ羽を復刻盤として発売します。これが第3回に緊急報告した「千代ぬれ羽」です。
しかし、時代は「ナイス」のような過酸化水素を使い、30分で染まる製品が主流となっており、もはやヒットすることはなかったようです。
昭和9年
過酸化水素の代わりに錠剤にした過酸化物を使用した製品を発売します。
「千代ぬれ羽」の売れ行きが急速に悪化した原因はいくつか考えられます。
・短時間でしっかり染まる製品が登場したこと。
・類似品が多数発売されたこと。
・かぶれのトラブルが多発したこと。
いずれにしても、消費者はより使いやすいものへと移行していったようです。
4.「ナイス」について ~初の過酸化水素を使用した白髪染~
明治後期に発売された、もう一つの製品が「ナイス」(丹平商会)です。発売は明治43年です。その理由は、大正2年の「ナイス発売満3周年記念特売のチラシ」から判断しました。
当初は大阪で発売され(明治43年3月)、その後東京にも販売拠点を設けたようです。内容については丹平製薬70年史に書かれています。
(1)製品について
液体二剤式の製品です。
特徴ある小箱に酸化染料、アルカリ剤、水の入った甲剤の瑠璃色瓶と、過酸化水素の入った乙剤の淡緑色透明瓶、説明書からなる。
発売当初は大瓶、中瓶、小瓶の3種類。
使い方は甲剤乙剤を混ぜ(混合比2:1、甲剤は乙剤の倍量入っている)、洗った髪に塗り、30分後洗い流して出来上がる。
なお、このナイスは「売薬部外品」の表示があるので、昭和7年~18年の製品です。
(2)製造者の深澤儀作について
丹平製薬70年史には、「ナイス」を作ったのは深澤(のちに石川)儀作とあります。また、ナイスの説明書にも「従七位勲五等薬剤師 深澤儀作君創製」と書かれています。深澤は明治29年当時陸軍三等薬剤官であったが、台湾出征中疾病で帰還、その後休職していた記録があります。また、明治末期に酸化染料に関する特許を出願していますが、酸化剤には過酸化水素を使用していません。
なぜ深澤は過酸化水素を使った白髪染を特許にしなかったのでしょうか?
その後、別人が過酸化水素を使った酸化染毛剤の特許を出していますが、既に明治43年に過酸化水素は製品に使われており、深澤は「公知」として誰でも使えるようにしたのではと考えます。
(3)「ナイス」の変遷
明治43年
大瓶、中瓶、小瓶で発売。
大正15年 ビハツ 発売
錠剤タイプの製品
昭和7年 粉末タイプ(赤函)
おそらく、粉末三剤式製品と思われます。
ナイスの売れ行きが低下した原因はいくつか考えられます。
・「るり羽」(山発)に代表される粉末三剤式製品に取って代わられたこと。
・ナイスの使い勝手が悪いこと。(液がたれる)
・価格が高いこと。(ガラス瓶2本のため)
これらのナイスの欠点を克服した粉末三剤式白髪染が、その後の主役となっていきます。これら白髪染の歴史については、第9回からお送りします。
5、文献
明治時代・後期の白髪染文献一覧
明治時代後期の白髪染文献 | ||||
発行年 | 文献名 | 項目名 | 著者 | 発行所 |
明治39年 | 美容術 | 髪の注意 | 河野巳之助 | 輝文館 |
明治40年 | 毛髪染色法 | Aug.Chem.12 | ||
明治40年 | 男女美容編:実用問答 | 白髪を如何に染むべき乎 | 古川 栄 | 衛生新報社 |
明治40年 | 美顔術並に毛髪に関する諸法 | 太田 道 | 大日本美髪会 | |
明治40年 | 新化粧 | 佐々木多聞 | 日高有倫堂 | |
明治40年 | 通俗皮膚病顧問 | 白髪 | 関藤治郎 | 崇文館 |
明治41年 | 男女通俗秘密療法 | 白毛予防法付白毛染薬 | 鴨田脩治 | 日本薬学協会 |
明治41年 | 美顔と化粧 | 染髪の害 | 谷崎二三 | タイムス社 |
明治41年 | 欧米最新美容法 | 美髪術 | 東京美容院 | |
明治41年 | 美容と化粧 | 赤い毛、縮毛 | 所青楓 | |
明治42年 | 皮膚病学ヨリノ美容法 | 染髪法 | 山田弘倫 | 南山堂 |
明治42年 | 美容術 | 染髪 | 神田正幸 | |
明治42年 | 美顔術独習 | 最も簡単なる美髪法 | 山野千枝子 | 東京衛生協会 |
明治43年 | 表情美容法 | 頭髪の美育法 | 児玉修治 | 大学館 |
明治43年 | 自ら施し得る美顔法 | 赤毛の手当 | 北原十三男 | 紫明社 |
明治43年 | 女ばかりの衛生 | 糸左近 | 三笠社出版部 | |
明治43年 | 新式化粧法 | 毛髪美容の秘訣 | 藤波芙蓉 | 博文館 |
明治43年 | 実験応用化学工芸品製造法 | タンニン染髪料、頭髪壱染着料 | 吉村兼冨 | 同済号書房 |
明治43年 | 最新美人法 | 高柳淳之助 | 学友社 | |
明治43年 | 売薬化粧品自宅製造法 | 白髪染 | 金沢鶴吉 | 理化学協会出版部 |
明治44年 | 地方有利副業案内 | 白髪赤髪染油の製造法 | 大野平治 | |
明治44年 | 簡易工業製造法 | 白毛出の予防薬製法 | 中村武 | |
明治44年 | 美の泉 | 白髪染剤処方 | 双汎社 | |
明治44年 | あはせ鏡 | 美髪術 | 藤波芙蓉 | 実業之日本社 |
明治44年 | 日用百科全書:経済重宝 | 白毛染油の法 | ||
明治44年 | 美顔と美髪 | 白毛予防法付白毛染薬 | 鴨田脩治 | 日本薬学協会 |
明治45年 | 西洋理髪法 | 毛染薬 | 島崎十助 | 理学研究社 |
明治45年 | 自分で出来る美人の心得 | 白髪を黒くする法 | 芳翠山人 | 魁進堂 |
・前期と異なり、美顔術、美髪術などより高度な技術が導入されてきている。
・北原十三男、藤波芙蓉、山野千枝子など著名な美容家が啓もう活動を行う。
・大正時代に入ると、海外で研鑽を積んだ美容師が国内で開業し技術水準が向上する。
<参考資料>
・日本ヘアカラー工業会 HP
・塗料人評伝 関東之巻 伊藤敦好 日本塗料協会 昭和17年(1942)
・丹平製薬70年史 昭和43年11月発行
白髪染の調査・研究をしています。ガラス瓶の発掘はできませんが、古い資料の発掘には自信があります。
住まい:愛知県 性別:男 年齢:68歳 趣味:家庭菜園
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