髪結(かみゆい)から理美容師へ

1.はじめに
2019年から始めた当ブログでは「白髪染の歴史」における疑問点のうち、
①「白髪染製品」が最初に登場したのは江戸時代、元禄年間(1688~1704)
②「酸化染毛剤」が最初に登場したのは明治38年頃(1905)
③「ヘアカラー」が最初に販売されたのは昭和31年(1956)
これらについては製品や資料から特定でき、この時期を確定できました。
ところが明治時代になって、大きな問題が判明しました。
それは、現在のヘアカラー市場が一般向け製品と理美容市場に分かれますが、一般向け製品の歴史については、多くのブログやヘアカラー工業会のHPに詳しく紹介されています。
ところが、
「理美容でヘアカラーがどのように発展してきたのか」
例えば、
・いつごろから理美容でヘアカラーが始まったのか
・どのような人たちがヘアカラーの発展に関わっていたのか
・染毛技術や理美容製品はどのように始まったのか
これらに対して、ヘアカラーに関連するブログや、理美容、ヘアカラー工業会のHPにも説明が見当たりません。
そこで、今回から理美容の面から明治以降の白髪染の歴史を調べなおし、上記の問題を解決するとともに、ヘアカラーの歴史をさらに厚みのあるものにしていきたいと思います。
〇 製品中心の歴史から「理美容の歴史」の検討
さて、突然ですが
明治時代の人は「髪をどの様に染めていた」のでしょうか。
江戸時代から既に白髪染は存在していましたが、実際どのように使われていたのかはっきりしませんでした。ただ、いくつかの資料が見つかってきています。
・自分一人で染める場合
鏡を片手に刷毛のようなもので器用に塗っています。
同じ構図の新聞広告が明治11年に掲載されています。
ここで使われているのは着色料で、一人で染めても無理なくできるようです。
・人に手伝ってもらう場合
染めにくいところは家人に手伝ってもらう。特に後頭部、襟足など
手が届きにくいところなどは、ご夫婦、親子などが新聞広告でもよく
見受けられますます。
・理美容師にやってもらう場合
理髪店での施術写真もありましたが、明治32年の新聞記事では、福井市内の理髪店で、「白毛、赤毛の早染が非常に大流行、直段(ねだん)も余り高からず、六十日間は請合とのこと。(明治32年9月2日、若越新聞)」
この頃すでに地方の理髪店でも白髪染を行っていたことがわかります。
ちなみに、女性も理髪店で染めてもらっていたようです。
・こんなサービスもありました
大正初めの新聞広告ですが、市販の製品(君が代)を購入すると、指定の理髪店で染毛のサービスがあると書かれています。
お客様の持ち込みなどもあって、こうしたサービスができたかもしれません。
また、昭和の理容商材カタログには「パラミン粉末」も掲載されており、店で調剤して施術していたようです。
実際に業務用白髪染製品が登場するのは昭和の初めでしょうか。
さて、今までこのブログでは、白髪染の歴史を「製品史」の視点から捉えてきましたが、明治初期には「髪に関わる大きな変革」がありました。これ以降、髪を結うから「散髪」さらに「染める」ことが加わった、新たな理美容が登場してきます。
さきほどの新聞情報でもわかるように、明治の中頃にはすでに理容店では「白髪染」が始まっていたようです。
では、その染毛技術はどのように習得したのでしょうか?
そこでこの設問をAIに聞いてみましたら、即座に以下の回答がありました。
(1)欧米からの技術導入と翻訳書の活用
横浜には外国人経営の理髪店があり、また「理化奇術大全」(仏、独:明治23年)や「化粧法:男女成美」(英国:明治24年)などの外国書が知られています。
「理化奇術大全」には硝酸銀使った染毛剤の施術法が、「化粧法」では鉛や硝酸銀の染毛剤の処方と使い方が解説されています。
(2)専門書や実用書による独学
市販の啓蒙書、雑誌、添付文書から独学で習得。
参考として「美顔術独習」「西洋理髪法」「新式化粧法」を挙げています。
「美顔術独習」には染毛はなく、「西洋理髪法」にはイラストで髭を染めている様子が、「新式化粧法」は日本の美容家、藤波芙蓉が著したもので、硝酸銀や鉛の染毛剤や過酸化水素を使った脱色剤も示しています。
(3)薬学・医学との連携
後期には安全性に関する医学・薬学的な研究も進み、知見を取り入れ技術を磨いていきました。
理容の解説の初めには、人体構造、血液の流れなど医学的な項目が並んでいます。
おそらく、明治中期までは雑誌や添付文書など独学で染毛法を学んでいたと思われます。
長くなりますが、明治中頃の粉末白髪染(鉛染毛剤)の使用方法原文を紹介します。
製品名:うばたま志良がそ免粉
〇染ようの事
染ようはごく大切につき能々読んで蒸ことを怠らぬ様にしたまえ 又あとの洗い悪しくこが残ればねばる事もあり
万人に一人も染まらぬ事なしと雖ども染め方の行届かぬにより十分に染まらぬ事も有 能々心を用い給え すべて薬の乾かぬようにすべし
先ず髪の毛を鶏卵或はうどん粉或は洗粉の類にて洗い油を能取ぬれたる儘この粉を(ゆにても、 みづでも)どろ々に溶き はけにてむらなく万遍に塗り毛の縺れ合ぬ様にすべし 又あたまや肌に強く摺込む時はひりつく事もあり気をつけたまえ
〇偖(さて)よくぬりたる上に手拭を熱き湯にて和らかに絞り二重にも三重にも生際の出ぬように能く包み蒸すようにして 温み醒めぬうちに又手拭を暖め一時間に(ふゆは四、五ど、なつは二、三ど)度々取替え三時間余もすれば手拭を取り ぬる湯にてそろそろ洗い 白き粉をよく落せば真黒也 尤も毛の性により一度にては赤くなる事もあり。髪は今一度初めの通り御染めなされ候得ばいかようの白髪にても染らぬ事なし
〇さて染上りよく洗ひたる時髪の滋を取り水油を多くつけ 櫛にて漉べし 髪につけたる粉は勿論肌につけたる粉も油に交りて取る也 又生際に粉のつきたるは水油を少しつけて拭へば忽ちに落る也 又油汚の落ち過たるより当座は髪のきしむ事あり 前のごとく水油をぬりて漉上れば治る也 又染たる後髪の汚れ貼りたる時はうどん粉か鶏卵或いはあらい粉にて洗うべし しゃぼん曹達もくるしからず
確かに、これほど注意事項、手順が細かいと理容店でとなるかもしれません。
明治から戦前までの理美容・白髪染の歴史に関する資料は少なく、更に業界団体のHPでも白髪染の理美容史はほとんど見当りませんが、歴史を掘り起こしていきたいと思います。
(注:全理連の史料室の記事によれば、お歯黒式白髪染を10時間かけて染めていたと書かれていますが、こんな長時間では理容店では施術できないような気がしますが・・・)
2.髪結の変遷
髪結とは江戸時代、男女の髪を結うことを職業としていた男性を指します。
(1)江戸時代の髪結について
男女ともに定期的に髪を結ってもらっていたようです。
・男性の場合 髪結(幕府から公認されている)
内床・・・店舗を持っている
出床・・・空地、橋のたもとなどで営業
廻り髪結・・・道具を携え決まったお客を回る
・女性の場合 女髪結(幕府から非公認だが)
・髪結鑑札 八百八町に一軒ずつの内床
(2)明治時代の髪結について
いくつかの資料では、国内最初の理髪業を始めた人物に以下の3名をあげています。
・先駆者
小倉虎吉 明治2年横浜で開業
松村庄太郎 明治2年東京で開業
庄司辰五郎 明治4年銀座で開業
さらに彼らに学んだ中から、松本貞吉、川浪良吉のような優れた技術者を輩出しました。
・技術と道具
・西洋理髪技術の習得
小倉たちは専属理容師のいる外国船に乗り込み、西洋理髪技法を習得したようです。
また、横浜の外国人理容館で学んだ者もいたようです。
日本人は手先が器用なこともあり、結髪から理髪、散髪への転換はそれ程困難なものではなかったと思われ、かなりの人数が理髪業を始めたようです。
・鋏とバリカン~国産道具の開発
技術以上に道具の不足は深刻で、少々輸入しても不十分でした。勿論、髪結当時の鋏では西洋技術には応用できません。
明治10年頃、友野釜五郎が初めての理髪バサミを制作しました。
丸刈りのためのバリカン(頭髪早刈剪)も明治22年に国産化されました。
・その後
松本の弟子の芝山兼太郎は横浜のホテル内に理容店を開業し、美顔術を習得しました。
また、上海で技術を学んだ大場秀吉は、横浜で開業し、のちに天皇の御調髪師と
なられました。
両名とも、「大日本美髪会」の技術顧問となりました。
・明治18年の京都府勧業統計では、「理髪店が1252店」とあります。飲食店の2409店と比較すると、理髪店が随分多いのは参入が容易だったからでしょうか。
・明治12年の山梨県営業税資料に「理髪床への課税額」が記されていました。
月税金20銭、但し理髪床二人立は金30銭、三人立以上は金40銭」とあります。
従業員数で区分けがされていたようです。
(3)明治期の髪型変化について
明治4年「断髪令」(散髪脱刀令、原文は「散髪制服略服脱刀共可為勝手事」)髪型、帯刀が自由になりましたが、実際にはそれ以前から断髪、斬髪する者が現れています。
「明治事物起源」には伊藤春輔(のちの博文)、や岩倉具視の海外で受けた驚き(相手の)や、恥ずかしさ(自分の姿)などが記されています。
自由とは言え、無理やり斬髪の例も多く、結局明治の中頃までに断髪、斬髪が進んでいきます。
女性は従来通りとしましたが、あわてて断髪する者も現れたため、明治5年に「女子断髪禁止令」を出したところもあったようです。
なお、女性の髪型の変化に関しては次回詳しく解説する予定です。
このように劇的に髪型が変化しましたが、白髪染にはどのような影響があったのでしょうか。
3.明治時代の「白髪染」事情
〇 国内の場合
・髪型が変わったことによる白髪染への影響について
明治時代の白髪染については、多くのブログ、HPなどに「お歯黒式で10時間かけて染めていた」
ことがよく書かれています。しかし調べてみるとそのような単純なものではなかったようです。
多くの資料から、初期にはお歯黒式もあったようですが、どうやら明治の中頃まで海外から
「金属染毛剤」が輸入され、
それが白髪染の主流となっていたことが確認されています。
勿論、ヨーロッパでも当時は「金属染毛剤」が主流でした。
その主なものは次の3種類です。
・鉛染毛剤の特徴:染毛時間は1~2時間。強いアルカリを使うため、理容師でないと難しい。
簡便な「鉛櫛」もあるが、効果はやや低い。
・銀染毛剤の特徴:染毛時間は30分~1時間程度。銀化合物は皮ふに付着すると取りにくいので注意が必要となります。
・鉄染毛剤の特徴:安全性は高いが染毛時間が10時間程度と長い。
これらの比較から、理容店では時間の短い、鉛や銀の化合物の染毛剤が使われていたと思われます。
明治26年の横浜税関資料には
「染髪料は普通染色を濃厚に為すべき効力ある金属塩類の溶液を以て製したるもの」
とあることから、この頃すでに海外から「金属染毛剤」が輸入されていました。
また、国内の資料からも金属染毛剤に関する記述が多数見つかっています。
国内最初の新聞広告に載った「有岡製」の白髪染看板が偶然テレビの番組で紹介されました。
今年の3月28日、テレビ東京の有名番組の金庫解錠コーナー。場所は香川県多度津町の飲食店(元は江戸時代からの商家で石鹸、ローソクなどを扱っていた)に掛かっていた看板。
表示には「大坂 有岡 志らがぞめ つかずながれず くろびんつけ」とあります。
多度津町は江戸時代から北前船の寄港地で、江戸、大坂などから多くの商品が取引されていたようです。
おそらくこの看板は明治20年前後のものと思われ、現在見つかっているこの時代の白髪染看板としては最も古いものと思われます。貴重な発見です。
〇 海外の染毛剤事情
・ヨーロッパの状況
ヨーロッパの産業革命
ドイツの重工業、化学工業の発展
・金属染毛剤(鉛、銀、鉄塩/タンニン)が主流
・ヨーロッパの染毛剤状況
1818年 テナール 過酸化水素の発見
1863年 ホフマン パラミンの発見
1883年(明治16)モネ パラミンヘアカラーの特許
1888年(明治21)エルドマン 染毛剤の特許
1891年(明治24)ラーゼウン氏染毛剤(没食子酸/硝酸銀)
1895年(明治28)ハーゲル氏無害染毛剤(次硝酸ビスマス)
「ジュベニア」染毛剤(金属)
1897年(明治30)ピース氏白髪染法(酢酸鉛)
1900年(明治33)「フェニッキス」毛染剤(パラミン)
1905年(明治38)日本で最初の酸化染毛剤(千代ぬれ羽)
ドイツでパラミン禁止
1907年(明治40)プリマール(ウオルフェンスタイン、コールマン)パラミンの改良
4.明治時代の白髪染関連法律について
(1)明治34年「理髪営業取締規則」
理美容に関して最初に出された法令で、内容は主に衛生、消毒に関するもの。更に営業は届け出制と
なっていました。そのため、多くの人が参入したようです。
この規則の第1条は理髪の定義ですが、「頭髪、鬚髯の剪剃、結髪(頭髪の結束)」と多くの都道府県の県令では書かれていますが、大阪府だけは1913年(大正2)に「しらが染め、くせ毛直し、顔剃り、襟直し」が営業項目に加えられています。
つまり理容で白髪染が認められた最初の地域と考えられます。
・その後、昭和2年に「理容術営業取締規則」が出され、理髪の定義に「理容術と称するは頭髪、鬚髯、剪剃、結髪、染毛及美顔術其の他毛髪、皮膚の衛生に関係を有する理容営業を言う」とあり、すべての地域で 染毛 が登場しています。
・さらに、昭和22年に「理容師法」ですが、次の機会に解説します。
(2)明治33年「有害性着色料取締規則」
白粉による鉛中毒で、化粧品等への鉛、水銀などの金属を使用することが禁止されましたが、鉛(炭酸鉛)の化粧品への使用は猶予されました。同じ鉛を使用した白髪染も化粧品扱いとなり、使用は認められたようです。ただ、白粉ほどの需要もなく、間もなく登場した「酸化染毛剤」に置き代わったようです。この間の理美容界が鉛禁止や酸化染料(パラフェニレンジアミン)の使用に対してどのような対応を取ったのか、酸化染毛剤登場の項目で検討したいと思います。
5.理髪制度の展開
何百年にもわたる頭髪の文化が、大転換した割には、理髪に関しては極めて順調に進んでいったように見えましたが、間もなく問題点が噴出します。
一つには、開国から始まった様々な感染症の発生です。数年おきにコレラ(虎列刺)赤痢などが大発生し、10万人規模の死者も(当時の人口は現在の3分の一程度)あったようです。
その後も「スペイン風邪」が全世界にわたって脅威となりました。
・「衛生意識」の徹底
理髪店も感染症の媒介の危険性が高い場所として厳しい感染対策が取られました。
それが明治33年の「理髪営業取締規則」です。
店舗の清潔保持、器具の定期的消毒、消毒剤種類、調整など厳しく指導されています。
・「賤業意識」の改革
衛生管理が守られない背景として、容易な開業とそれに伴う過当競争、徒弟制度による厳しい就業状態、江戸から続く低い職業意識「賤業意識」などの改善が求められてきました。
そうした社会状況を「教育」の方向から改善していく目的で、明治39年に民間の養成機関として、大日本美髪会が設立されます。
6.大日本美髪会について
設 立:明治39年(1906)
目 的:衛生と美貌
主 筆:太田重之助(重道)
顧 問:北里柴三郎
機関紙:美髪
理髪学講習会・・・理容の技術体系づくり
講 師:芝山兼太郎、大場秀吉
なお、関西では「芸美会」(昭和2年)が設立されています。
大日本美髪会の活動内容、その後の理容学校、さらに理髪試験導入などを解説します。
<参考資料>・日本の理髪風俗 坂口茂樹 昭和47年
・鋏(はさみ) 岡本誠之 昭和54年
・明治事物起源 石井研堂 平成 9年
<あとがき>
江戸時代から既にいろいろな種類の「白髪染」が登場していましたが、すべてが一般向けであるため、一部染毛を補助する仕事が、自然発生的に生まれたのではと考えました。
断髪から理髪、そして白髪染の「補助」が理髪業に定着していった流れでしょうか。
新聞記事からは、明治の中頃には既に理容店での染髪が行われており、大正初めに大阪府が、それ以外の地域でも昭和の初めには理髪店のメニューに「白髪染」が登場しています。
今後は染毛がどのように技術として定着していったかも含めて調べていきたいと思います。
白髪染の調査・研究をしています。ガラス瓶の発掘はできませんが、古い資料の発掘には自信があります。
住まい:愛知県 性別:男 年齢:68歳 趣味:家庭菜園