「もうちょっと詳しい白髪染の歴史」 第6回 明治時代の白髪染(その2)

仙女香マーク

1.はじめに

先回は江戸後期から明治にかけての白髪染の動向を紹介しましたが、もう一つ重要な商品をもうちょっと詳しく紹介したいと思います。それは「仙女香」と「美玄香」です。

近年の研究から判明した事柄、新たな話題の出来事まで、今まで触れなかった点をまとめて報告します。

仙女香マーク
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2.仙女香と美玄香について

江戸時代後期に名前を残す「仙女香と美玄香」ですが、発売元は「坂本氏」ということはよく知られています。しかし、いつ頃発売されたかを記している資料はほとんどありません。また、広告宣伝技法についての解説は多くありますが、何故、明治になって突然、販売をやめたかについての考察もあまり見かけません。

ここではそれらの点について調べていきたいと思います。

江戸名物双六の「仙女香と美玄香」の包み
江戸名物双六の「仙女香と美玄香」の包み

 <参考1>「白粉」の基礎知識

白粉とは、顔や首筋に塗って色白に見せる化粧品で、剤型により粉おしろい、水おしろい、練りおしろいに分類されます。古くは植物性の白粉もあったようですが、持統天皇時代、「鉛白粉」の製法が、また奈良時代には水銀から作った「軽粉」が中国から伝わりました。

鉛白粉は昭和の初めまで使用されていました。

白粉のいろいろ1

白粉のいろいろ2

白粉のいろいろ3
白粉のいろいろ

 

<参考2> 江戸の年号

     寛政  1789年 ~ 1801年

     享和  1801年 ~ 1804年

     文化  1804年 ~ 1818年

     文政  1818年 ~ 1830年

     天保  1830年 ~ 1844年

     弘化  1844年 ~ 1848年

(1)仙女香とは

仙女香、正式名を「美艶仙女香」とは江戸時代後期、江戸の坂本氏が発売した白粉として知られています。ただ、文政年間(1818~)の頃には白粉問屋だけでも17店(江戸買物独案内より)もあり、江戸だけでもかなりの製品数があったと思われますが、何故「仙女香」が名前を残すことができたのでしょうか。

仙女香の広告文
仙女香の広告文 

・名前の由来

歌舞伎役者「三代目瀬川菊之丞」に由来します。

「大阪の振付師市山七十郎の二男で、初名は市山富三郎、明和二年大阪で初舞台、安永三年江戸市村座に下り、二代目の養子となって瀬川富三郎と改め、その十一月に三代目を襲名した。ついで年毎に名声をあげ、天明二年には江戸惣巻軸の位に上り、江戸女形の随一となった。享和元年俳名の路考(前には玉川という)を芸名とし、同二年に上方へ帰り、文化元年東帰、同四年路考を更に仙女と改めた。故に三代目を仙女路考という。文化七年十二月六十歳で没した。」(浮世絵辞典より)

・製品形態

 粉末紙包装、四十八銅(文)

 水で溶かして刷毛で塗るタイプのようです。

 渓斎英泉の浮世絵にも「式部刷毛」を使っている様子が描かれています。

製造発売元

「白粉の名であるが、これは南伝馬町稲荷新道の坂本屋から発売されたもので、三代目瀬川菊之丞の俳名 仙女(前には路考といったが文化四年仙女に改めた)から仙女香と名付けた白粉を発売したのである。この白粉の畳紙は、国貞、英泉その他の美人画の中に描かれている。」(浮世絵事典より)

坂本氏の所在地は、京橋南伝馬町三丁目/稲荷新道稲荷社東隣 となっています。

文政12年から天保5年まで京橋一丁目四つ角 に引っ越しその後元の南伝馬町三丁目に戻ったと記録があります。

坂本氏は化粧品・小間物店で、「発声丹」のような喉の薬もあったようですが、薬種商のような本格的な薬は販売してなかったようです。

慶応年間には「傘」も販売していた、との広告があり、明治期にこの傘の方に商売を変更していきます。

「両天傘」とある広告
「両天傘」とある広告

・発売時期

発売年を明確に指摘する資料は見当たりませんでした。

瀬川菊之丞が仙女を名乗ったのが文化四年(1807)ですから、仙女香の発売はそれ以降となります。

文政4年(1821)と書かれた本もありますが、根拠が示されていません。

文政2年以前説は、「江戸買物独案内」(文政2年出版許可、5年刊行)に仙女香の広告文が掲載されていることによります。

「江戸買物独案内」より
「江戸買物独案内」より

また坂本屋の創業年に関しては、雑誌、新聞広告に「創業文政元年」の表記があります。

「仙女香」雑誌広告:隣に「千代ぬれ羽」の広告
「仙女香」雑誌広告:隣に「千代ぬれ羽」の広告
仙女香マーク
「仙女香鞭杖ハ文政年間ニ開業ス」と書かれています。

これらから仙女香自体の発売時期を特定できませんが、三代目瀬川菊之丞が仙女と名乗っていた文化四~七年(1807~1810)あたりではと推測しています。

・製品特長

 効能効果: 御かほの妙薬 美艶仙女香一包四十八銅

       此仙女香は常に用いていろを白くし

       きめをこまかにす/はたけそばかすにも吉

       できもの、跡を早く治す 其外効能 

       多しくわしくは包紙に記す

当時の他店の「白粉」でも同じような宣伝文句が記されており、これらは白粉の定番の効能広告と思われます。

・宣伝形態

多くのところで目にする「仙女香」ですが、主な例を紹介します。

浮世絵の場合

色々なところに登場しています。

浮世絵1

浮世絵2
浮世絵

 絵草子の場合

本編以外にもこんな狭い隙間に登場しています。

巻末部分と本編にも

巻末部分と本編にも
巻末部分と本編にも

川柳の場合

 ・橘中から女の仙人が出る       柳多留二十九・4

 ・合巻の辻々にある仙女香       九十七・20 

 ・仙女香十包ねだるばかむすめ     百十・7

 ・仙女香やたら顔出す本の端      百二十一・31

(2)美玄香

・名前の由来

「玄」には大変優れているとの意味もあり、美しく黒い髪にするという意味。(江戸美人の化粧術より)

・製品形態

仙女香と同じ粉末紙包装、四十八銅(文)との表示が見られます。

美玄香(御志らが染くすり)
美玄香(御志らが染くすり)

 使い方は鬢付け油などに溶いて髪につける方法が推測されます。

・発売時期

「馬琴日記」第一巻「文政十年丁亥日記」には、「七月七日和田源七来ル。美玄香とやら売薬、弘メ候由ニテ、合巻ニ書入被下候得ト之頼也。」とあることから文政十年(1827)頃の発売と思われます。

<馬琴日記>

南総里見八犬伝,椿説弓張月等の作者として知られている戯作者 曲亭(滝沢)馬琴(1767~1848年)が、文政9年から嘉永2年までの身辺の出来事の詳細な日記で、冠婚葬祭から食、医療などを記したものである。

 

(3)仙女香・美玄香の疑問点

・なぜ大量の広告宣伝ができたのか

通説では坂本氏の祖先が浮世絵、読本などの検査掛をしていたからとしています。

そこで先の文政十年、馬琴のところに「美玄香を売り広めようと・・・」との記述から、和田源七という人物が浮かび上がってきました。

・「和田源七」とは

< 人物 >

坂本氏の所在する南伝馬町を含む地域の「町名主の肝いり」の一人。浮世絵や草双紙などの

検閲をおこなう「改掛(あらためかかり)」を長く勤めていました。

古くからの名主のようで、「元禄四年に同じ堀を埋め立て・・・、常盤町二丁目は鈴木町因幡町具足町などの名主和田源七の支配となった。」とあり、このころすでに和田源七が世襲していることがわかっています。(「元禄の町」東京都紀要28 1981年)

また、「藤岡屋日記」には「鈴木町名主和田源七、私ニ庇ヲ取ラセ候ニ付、糺ノ上押入、相済候ニテ隠居致シ候、勤役十四年之内。年ハ七十余歳也。仙女香ノ見世ヲ出シ置、絵双紙懸也。」との記述が見られ(天保13年10月10日)翌天保14年に71才で亡くなっています。

<藤岡屋日記>

江戸時代末期(文化元年から明治元年の65年間)の江戸での事件や噂を記録した日記で、須藤由蔵(藤岡屋:古書店)が残した。

文化四年(1807)九月、絵入り読本改掛肝いり名主四名が任命され、地本類出版に対する直接検閲体制が確立しました。十一月には山東京伝、滝沢馬琴が連名で、絵入り読本改掛肝いり名主の一人である和田源七にあてて法令遵守の態度を表明した口上書を出させています。

滝沢馬琴などへの無理難題などが、馬琴日記にも書かれており、この頃から権力を持ちこれが後で示す「虎威」の内容と思われます。

このように、代々鈴木町の名主で、文化・文政の頃、仙女香、美玄香に関わった「和田源七」が坂本氏と関わりのある人物であると思われます。

<仙女香との関わり>

馬琴の「吾仏之記(あがほとけのき)」(家説第四 二百四項)には式亭三馬の「江戸の水」と並んで、「和田源七が仙女香は、虎威を借りて広めたる也」と書かれています。

<吾仏之記> 

江戸の戯作者 曲亭(滝沢)馬琴が滝沢家の家父として、子孫の繁栄を願って綴った家の記録で、引っ越し、葬式、墓石費用などこまごましたことが掛かれているが、当時の様子がよくわかる資料でもあります。

また東京深川、富岡八幡宮の境内には

和田氏歴世碑

これは天保五年、遠い子孫の和田源七が先祖の来歴を記した碑を寄進したものです。

其文に曰く「吾遠祖大和田清左衛門、摂州西生郡大和田浜人、慶長中以漁船数十、供東軍運漕戢戈之後徙於江戸、官命管轄関八州漁者之征、賜宅地小田原街、四世之孫曰浄麟明暦丁酉城北失火、延蔓数里時亦罹災、失所賜朱印書及家系得罪見収宅地、移居鈴木街改姓名日下田甚兵衛、号伏見屋以鬻魚為業後遇赦改号大和田屋・・・」

 大阪の大和田から出てきた祖先が、江戸で漁業の傍ら徳川家康に協力し、功を得てこの地で名主を代々続けてきたことが書かれています。さらに碑の裏面には「仙女美玄二香祖舗坂本氏」と書かれた「建碑補弼(けんぴほひつ)」とあります。

和田家歴代の墓(長専院)
和田家歴代の墓(長専院)

 また鈴木町名主であった和田源七は、「天保二年(1831)の町奉行調査によると、自宅は倅夫婦に任せ、新両替町に住んで、仙女香という化粧品を商売しており・・」との記述もあります。(「江戸の町役人」より)

坂本氏が仙女香・美玄香を始め、和田源七が宣伝広告により「売り広めた」のは確かのようですが、両者の関係は明らかではないようです。

<坂本氏と和田源七との関係>

    1773年(安永 2)   和田源七誕生

 1800年 ~       三代目友七誕生?

 1804年 ~       「仙女香」が登場?

 1818年(文政 元)   仙女香坂本氏の創業

 1819年(文政 2)   「江戸買物独案内」(刊行許可年)

 1820年 ~       四代目友七誕生?

 1827年(文政10)   和田源七、美玄香を売り広める(馬琴日記)

               この頃浮世絵、絵草紙などに仙女香の宣伝多数

   1843年(天保14)   和田源七死去(71才)

   1847年(弘化 4)   五代目友七(友壽)誕生

   1872年(明治 5)   熊吉誕生

   1887年(明治20)   欧州留学

   1912年(大正 元)   六代目友七襲名

この年表から浮かんでくるのは、和田源七が文政元年に坂本氏の「仙女香」を起こした先祖ではないか、との推測です。

和田源七に関しては

         坂本氏の系列(先祖)

         坂本家の支配人的な役割

など書かれているのもありましたが、

2003年の「徳川幕府と巨大都市江戸」のなかにある「仙女香と出版物の改掛」の中では「おそらく坂本というのが和田源七の本来の姓・・・」とあります。

また、令和4年の東京都立図書館企画展に関する解説の中で「仙女香」製造販売元の坂本氏は本名「和田源七」といい、(中略)文化4年から天保13年という長期にわたり、出版物の改掛(あらためがかり)つまり検閲を務めた人物でした。と書かれていますから、どうやら坂本氏 = 和田源七 でしょうか。

なぜ白粉をやめて洋傘商になったのか

江戸時代の終わりごろに登場した「仙女香」「美玄香」は、おそらく当時は一般的に広まっていた白粉や黒油と同程度のものであったと思われます。それが特別な広告宣伝手法で有名商品に上り詰めたのでしょう。

ただ、その手法には多くの反感を買っていた模様で、和田源七が亡くなった後は、宣伝もなくなり、仙女香の売れ行きも低下していったと考えられます。

五代目坂本屋友七(友壽)は明治になって海外からの新しい製品に驚き、その中で「洋傘」を国産化できないかと、モノづくりの原点に立ち返って考えたのでしょうか。

14,5歳の熊吉(六代目友七)をヨーロッパで5年も修業させ、その間にも国内での博覧会に出品を続け、国産洋傘の地位を確立していったようです。

ただ同時に、以前からのお得意様に対しても仙女香を供給していたようですが、鉛の禁止、無鉛化の対応ができないなど結局、昭和の初めには廃業していたようです。

一方「美玄香」に対しての情報は「まったく残されていませんが、明治に入っていくつかの店から「液体式黒油」が発売されており、美玄香の姿も過去のものとなってしまいました。

和田源七と共に登場した「仙女香と美玄香」でしたが、亡くなると同時にこの製品も他の白粉の中に埋もれてしまいました。しかし、製品を洋傘に姿を変えても「仙女香」の屋号は残したことを考えると、この名は坂本家にとっては大切な財産であったのでしょう。

<参考資料>

・「江戸の町役人」           吉原健一郎  吉川弘文館    昭和55年

・司馬江漢「東海道五十三次」の真実   對中如雲   祥伝社      令和2年

・「徳川幕府と巨大都市江戸」      竹中誠    東京堂出版    2003年

・「江戸の広告作法 えどばたいじんぐ」 坂口由之 吉田秀雄記念事業財団 2020年

・「江戸美人の化粧術」         陶智子    講談社      2005年

・「広告で見る江戸時代」        中田節子   角川書店     平成11年

・「現代の問屋」            商店雑誌編輯部 商店雑誌社   大正6年

・「絵本江戸化粧志」          近世風俗研究会         1955年

・「江東区史跡散歩」          細田隆善   学生社      1978年

(4)無鉛白粉の開発について

日本において「白粉」の歴史は古く、更に重金属を使っているため、その安全性についての問題も古くから言われていたようです。ここでは白粉「仙女香」に関連して、明治のこの時代に起きた白粉の問題についても調べてみました。

・白粉の鉛中毒について

鉛白粉は使い勝手、仕上がり、価格などに優れ広く一般にも使われていましたが、昔から鉛の毒性については知られていました。江戸時代にも鉛中毒の症状が将軍、大名、公家などの上流階級に認められていました。

 明治20年の「天覧歌舞伎事件」以降、無鉛白粉の開発が進みました。

 明治33年(1900)、無鉛「御園白粉」(伊東胡蝶園)完成。

 

御園白粉
御園白粉

・明治33年「有害性著色料取締規則」について

 同年、無鉛白粉完成を待っていたかのように、表題の規制が出され、化粧品への鉛の使用が禁止されましたが、白粉は例外として当面使用が認められました。

・完全に無鉛化することがまだ困難だった

・使いやすさ、価格面など業界の反対、陳情があった

・成人では鉛中毒が起こっていなかった

結局、昭和10年まで完全に禁止することができませんでした

・染毛剤への影響

前回、化粧品への「鉛」の禁止が白粉ではなく、「鉛を使った白髪染」に影響を及ぼし、結果的に「酸化染毛剤」の登場につながったとの見解を述べました。

化粧品と「売薬部外品」との違いはありますが、国内だけでなく海外でも「金属染毛剤」の時代は終わりに近づいていたと思われます。

ただ、使い勝手がよく染毛効果の高い「酸化染料」のかぶれ問題の対応に「金属染毛剤」が再び登場することになったのが、「鉛完全禁止」の昭和10年頃です。

(5)司馬江漢の東海道五十三次「油絵」について

對中如雲氏の「司馬江漢 東海道五十三次の真実」(祥伝社 令和2年)は、その序文にあるように「江漢作の東海道五十三次が、本当に広重の東海道五十三次の元絵だったのか。そしてその作者が江漢その人であったのか、を明らかにする。」ことにあるとのことです。

詳しくは本書をお読みいただくとして、ここでは本文中に登場する「仙女香」に関連する部分についてとりあげ、今まで述べた内容との確認を行いたいと思います。

「東海道五十三次の真実」
「東海道五十三次の真実」

・関宿の場面における「仙女香」について

 江漢(1747~1818)

 広重(1797~1858)

 仙女香(1807~

 美玄香(1828~

 広重・東海道五十三次 (1833)

 江漢の作には「仙女香」のみが書かれている。

 広重の作には「仙女香・美玄香」が書かれている

 ともに時代的には矛盾がない。

広重、司馬江漢の「関本陣図」
広重、司馬江漢の「関本陣図」

今回はほとんど江戸時代の内容となりましたが、ちょうどNHKで同時期の「蔦屋重三郎」を取り上げており、江戸後期の姿が少しは参考になるかと思い取り上げさせていただきました。