

1.はじめに
「白髪染の歴史」を始めてから結構時間が経ちましたが、やっと江戸時代あたりから日本とヨーロッパとの繋がりが見えてきました。
明治時代に入って、それまでの国内の白髪染以外に、ヨーロッパの金属染毛剤技術を取り入れた新製品も登場してきました。
そうした中、日本の白髪染は明治38年頃を境に全く新しい局面を迎えました。
それは突如「酸化染毛剤」が登場したことです。
そしてこれは現在まで影響する重要な出来事であるのに、何処にも何故この時「酸化染料パラミン」が登場したのか、そしてこの最初の酸化染毛剤が、何故「空気酸化」で白髪を染めたのかといった点についても、解説した資料がなぜか全く見当たりません。
そこで今回は、この現在のヘアカラーにつながる、酸化染毛剤登場の背景、展開とその影響について解説します。
併せて今までこの白髪染の歴史で説明してきた「ナイス」に関して重大な誤りが判明しましたので、その内容についても報告します。
2.酸化染毛剤の登場
(1)「千代ぬれ羽」開発の経緯
先回報告したように、国内で有力であった「金属染毛剤」が、「白粉の鉛問題」の影響を受け、低迷していったことが酸化染毛剤登場の原因であったと考えています。
さて、国内最初の「酸化染毛剤」を発明したのは、服部重右衛門ということがわかっています。
服部重右衛門(幼名:貞次郎)は明治13年浅草蔵前に生まれ、のちに伯父の黒田市之助商店で修業し、明治38年に独立(25才)。
薬舗「服部松栄堂」を継ぎ、服部重右衛門を襲名、同時におそらく世界で初めての液体一剤式酸化染毛剤「千代ぬれ羽」を発売しました。

さらに塗料の分野では、明治42年には「国産ワニス」の製造もはじめました。これも塗料業界では初めての事のようです。

このように服部が二つの分野で歴史に残る製品を開発できた背景には、
①伯父の黒田市之助は染料、塗料原料を扱っており、業界では有力な「絵の具商」であったこと。
当然、染料原料の知識、特に「パラフェニレンジアミン」について服部は教わる機会はあったと思われ、当時から商品化についても考えていたのでしょう。
②黒田市之助は、服部のほかにも金井仙次郎、尾関長治郎、林彦次郎など多くの逸材を業界に送り出しているので、服部が独立の際にも黒田から多くの支援を受けたと思われます。
例えば、発売元が「黒田市之助商店」との広告や、一剤ガラス瓶を染料業界でよく使われていた「染料瓶」で代用するなど、当時の様子を伝える関係資料などが見つかっています。


③「ワニス」の将来性を見極め、研究を行った。
当時、国内で使われているワニスはすべて外国製で、服部は何とか国産化できないかと苦心の末開発し、鉄道省にやっと採用され、それから本格的な開発を進めました。
技術製造に関しては苅谷角四郎が中心となり、国内の博覧会に出品し好評を博していきます。
服部重右衛門の名前は塗料業界に広く知れ渡っています。本業は塗料ですが、店の商品紹介に必ず「千代ぬれ羽」の名前を入れていました。染毛剤以外にも化粧品なども手掛けました。
服部は「千代ぬれ羽」で成功をおさめ、のち亀戸に広大なワニス製造工場を建設しました。

(注:ワニスとは、木材の表面を保護するための塗料で、透明で硬い仕上がりで、当時は船の甲板や列車の床に使われていたようです。当時の鉄道省に採用されたことから、服部のワニスが広まったようです。)


以上のように、服部重右衛門の周り、伯父や研究仲間などの支えがあって、二つの重要な製品化を成し遂げることができたようです。
しかしながら、いくつも経歴、評伝にあたりましたが服部が「染毛剤」について学んだ記録が見当たりません。おそらく伯父の店での修業時代に見聞きしたことを、「製品」の形にまとめ上げる感覚に優れていた人物であったのかもしれません。
引退後、渋谷の別邸で染毛剤の研究を続け、戦後の出願特許も確認されています。この人物に関してはまだ調べ方が不十分かもしれませんので、もう少し深く調べたいと思います。
(2)「千代ぬれ羽」以後の製品について
液体一剤式の「千代ぬれ羽」が発売されて数年後には、確認されただけで20品目以上の製品が登場しています。

「千代ぬれ羽」はその処方が単純なため、多くの類似品が登場しましたので、明治42年の広告では類似品に関する注意喚起を行っています。

しかしそうした類似品の中に、その後の染毛剤の流れに影響を与えた重要な製品が含まれていました。
例えば、一覧表には掲載していませんが、粉末一剤式「改良初から寿」がそれです。

外観は、「千代ぬれ羽」と同じ一剤瓶入りですが、液体ではなく「粉末」が入っています。
つまり、使用時に「水」を加えてから「髪に塗る」操作を行います。
これは、一見「液体式」から「水」を抜いただけと思われますが、実はこの後、昭和の初めにかけて登場する「粉末一剤式製品」の先駆けとなる姿が、そこに認められます。
開発者の「長尾徳蔵」について
長尾は明治5年大阪に生まれ、明治25年に薬剤師の資格を取得、「徳栄堂」を開業。
明治25年頃には、お歯黒式の「ヤング」という製品を発売しています。
明治40年ごろには「液体二剤式 初から寿」「粉末一剤式 改良初から寿」を発売。
明治43年には関西の大手薬舗「谷回春堂」の支配人薬剤師となり、昭和3年死去。
死後、店主の谷始太郎が白髪染の特許を出願しています。おそらく長尾が研究していたものではと考えています。
(3)「ナイス」より先に発売されていた「液体二剤式」製品「初から寿」
「初から寿」を調べていて気づきましたが、従来から明治43年発売の「液体二剤式 ナイス」(丹平商会)がこの剤型の最初の製品として紹介してきました。しかし「初から寿」(日の出商会:大阪)の明治42年の宣伝広告資料が見つかりましたので、この剤型の最初の製品としたいと思います。

その内容としては、
・「初から寿」(液体二剤式)は今回の広告(第二号:明治42年)より前に発売されていたこと。
甲乙二瓶の配合は嵩(かさ)高く、価格も高価であることから第二号(一剤式)を発売したことが広告に記載されています。
・「第二号 初から寿」(改良初から寿)を今回発売したこと。(明治42年)
一瓶入り粉末状で旅先でも簡単に使用できること。
実は、この「一剤式粉末」という考え方が、このあと大正時代初めごろに登場する「三剤式」(パラミン粉末、糊料、過酸化水素水からなる)のもとになっている点にあります。
この剤型の代表的な製品として「るり羽」(石井成功堂 → 山発)があります。
その利点としては、
・コストダウンができる。
染料、糊料などを紙包装(のちに錫箔)で軽量化と瓶の省略ができる。
・大量生産が可能
山発と朋友(当時は水野商店)はほぼ同じ規格瓶を使用しています。
こうしたメリットを生かし、高価格で使いにくい「液体二剤式」製品は「三剤式」製品に置き代わっていきます。
従来「ナイス」は「千代ぬれ羽」に対抗して発売されたと考えていましたが、この資料により同じ関西地区で先に発売されていた「初から寿」を対抗としていたと推測できます。
剤型的にも同じ「液体二剤式」製品ですから、その推測は理解できます。
なお、「ナイス」開発者の深澤の特許は大正元年に出願されていますが、おそらく「ナイス」の発売に合わせて、明治42年ごろに「ナイス」処方を丹平商会に提供したのではと考えています。(丹平商会は明治42年ごろすでに「ナイス」関連の意匠を多数登録しています。)
更に「ナイス」についてはもう一つ疑問な点があります。それは一剤の染料液に粘度がないこと、つまり当時使われていたような増粘剤(でんぷん類、フノリなど)が使われていないことです。
これについて「丹平製薬70年史」では、「かもじ(付け毛、かつら)」を染めるためには粘度がない方が便利であると述べています。
液体二剤式は1,2剤の液を混ぜて塗布しますが、混合により粘度が半減するため、「液だれ」「地肌汚れ」の原因となりやすく、そのためこの説明には納得できませんでした。
しかし、深澤の特許では「1剤塗布後2剤を塗布する」といった使用法でしたが、これですと放置時間が混合使用の倍かかります。
この点からもどうやら、大阪地元の「初からす」に対抗するため、慌てて商品化を急いだ感じが窺えます。
開発者の「深澤儀作」について
万延2年(1861)静岡に生まれる。明治22年、薬剤師試験に合格、明治27年陸軍薬剤官。
明治29年退官後、病院、医薬品会社勤務を経て製薬会社等を設立が、昭和10年長男が設立した「石川製薬所」の代表となる。経歴調査からは、過去に深澤が「液体二剤式白髪染」の開発・製造に関わった痕跡が見いだせませんでした。
3.酸化染毛剤の開発、その背景
(1)何故「酸化染料パラミン」だったのか、何故「空気酸化」だったのか。
恐らく、パラミンを扱っていた技術者、現場の人たちには、その酸化の早さ(すぐに黒く、べとべとになる)はよく知られていたと思われます。服部は黒田商店で修業時代にそれらを見聞きし、それを新製品のアイデアとしたのは想像に難くないでしょう。
ただ当時のヨーロッパの製品のように、酸化剤に「過酸化水素」を使うとなると、輸入・製造など初期の技術・投資が負担になるので、もっとも単純な剤型を選択したと、前回の第7回「ちょっと詳しい白髪染の歴史:明治後期」で解釈していました。
今回見直したところ、どうやら服部と長尾、深澤の違いが、製品化の違いになったのではと考えました。
服部は「パラミンの持つ性能を活かした製品化」を、
長尾、深澤は「パラミンを利用した処方の一つとしての二剤式」を
考案した違いがあります。
一剤式と二剤式の違いは、「放置時間」と「酸化剤の有無」にあります。頭髪上に長時間「パラミン」を付けたままの状態が「かぶれ」に影響があると気付いたため、改良品では「放置時間」を短縮しています。
その後の活動(特許出願)を見ると、服部は「錠剤式」とか「自動酸化型」などアイデア豊かな新規の「用途特許」に取り組んでいますが、長尾の製品からはのちの「粉末一剤式」へと広がる製品開発の視点が見うけられます。
当時の白髪染製品比較
剤型 成分 放置時間
・お歯黒式 鉄塩・五倍子 ~12時間
・金属染毛剤 鉛・銀など 30分~2時間
・液体一剤式酸化染毛剤 パラミン ~12時間
・液体二剤式酸化染毛剤 パラミン・過酸化水素水 30分~1時間
ヨーロッパの状況に詳しい、「理美容師」「評論家」は「パラミン使用」には反対していました。
主旨は明確で、「かぶれ」があるからです。
優秀な技術者が「最も単純な処方」で「最も自由な使い方」ができるとして作り出した製品が液体一剤式の「千代ぬれ羽」であったようです。
最近、いくつかのブログで国内初の酸化染毛剤「千代ぬれ羽」の名前を見かけるようになりました。ただ、「放置時間が2時間」との記載があり
(実際の発売当初の使用説明書では 12時間 となっています)、
それまでの「お歯黒式白髪染」に比べ、大幅に時間が短縮されたからヒットしたとの解釈がなされていますが、正しくありません。
以前も指摘しましたが、これは放置時間の問題ではなく、使用者が「自分の時間」で対応できる自由度こそが「千代ぬれ羽」のヒットの理由と考えていました。
ただそのため、頭髪上に「パラミン」が長時間乗っている状態なので、「かぶれ」の危険性が高まります。
今回の史料から、「改良初からす」の放置時間が「2時間」との記載があり、また「千代ぬれ羽」の改良品が「6,7時間」との記載もあり、両者が「放置時間」をどのように理解していたか、もう少しこのあたりに関しては調査をしなければと考えています。
<コラム> 白髪染の発展、関東と関西について
明治以降の白髪染製品の製造地域を調べてみると、どうやら西日本(関西、中部圏)が優勢だったような気がしましたので、白髪染について関東、関西という視点で考えてみました。
・白髪染文化は上方(関西地方)から江戸に伝わりました。
京都や大阪には江戸時代からの「白髪染の引き札」がいくつか残されています。
・江戸では元禄期に「大坂屋 川上藤兵衛」が白髪染の元祖と広告しています。
・大阪の道修町に対して東京の日本橋が薬の町として有名ですが、大阪の方が歴史は古いです。
・東京で酸化染毛剤が登場してすぐに大阪ではさらに進んだ染毛剤が続々登場しています。
・関東大震災以降、白髪染製品の拠点は中部(名古屋京町)、関西へと移っていきます。
「るり羽」(大阪)、「元禄」(名古屋)更には「パオン」「ビゲン」と戦後も続いていきます。
大きく見ると、製造・技術の関西と販売・消費の関東といった構図ですが、例えば薬で有名な地域、富山では「ラーベー」(液体製品)、藍染めで有名な徳島では「クロカミ」(粉末製品)といった地域製品も生まれています。


まだまだ名前と地域が不明な製品が多数ありますからもう少し調べようと考えています。
4.国内の状況・・・新聞報道、回収騒動、薬事法・毒劇物法の改正
(1)新聞報道から
「千代ぬれ羽」発売以降数年でパラミンを使用した染毛剤が続出し、それにつれて「かぶれ事故」が多数報告されるようになります。
明治42年には医学関係の湯浅要作、石津利作が医学雑誌に投稿したことで、染毛剤の皮膚障害が広く知れ渡ります。湯浅は開業医、石津は東京都衛生試験所の技師ではありましたが、その後皮膚、泌尿器などの専門家からの報告が相次ぎます。
特に石津は、海外の様子、国内の事故、症例、毛髪の状態など詳しく、この報告はその後多くの論文にも引用されています。
湯浅 「坊間流行スル白髪染ニ就テ」明治42年 成医会雑誌 326号
石津 「諸種ノ白髪染薬ニ就テ」明治42年 皮膚科及泌尿器科雑誌 第9巻第7号
11月に一般紙にかぶれ記事が掲載されましたが、これが最初の新聞記事のようです。
ついで、明治43年12月21日の報知新聞記事でパラミンの状況が明らかになります、

研究者の「湯浅要作」について
明治14年、群馬県生まれ。東京慈恵医院医学専門学校卒業後、明治37年に医術開業試験に合格後、群馬県内で開業し雑誌へ投稿。その後メキシコ、ヨーロッパで研鑽ご帰国。
学校医などを経験後、再度地元で開業する。
研究者の「石津利作」について
明治10年大阪生まれ。明治33年、東京帝国大学医科大学薬学科卒業。
明治40年、東京都衛生試験所技師。大正7年、星製薬株式会社に技師長として招かれる。
(2)回収騒ぎ
各地(静岡、神奈川、広島)で、その後「愛知」でも回収騒ぎがありました。
明治44年の禁止品目 濡羽色高砂 ベーヤ 緑の露 高砂印白毛赤毛染濡れ燕
固型鳳凰印白髪染 白髪赤毛染御代の誉
大正2年の収去品目 改良君が代 黒蝴蝶 若松 るりかつら
これらの品目を見ると、明治44年にはパラミン及び金属染毛剤が含まれており、法改正後の収去については、この4品目は成分配合量を勝手に変更したためとのことです。
(3)法改正
・パラフェニレンジアミンを家庭用染毛剤用染料として毒劇物法に収載。
毒劇物取扱者のいる薬局、薬舗にて販売可能となる。
・消費者側の対応
「家事上必要ナル指定毒劇物ヲ販売スルトキ」にはこの買受書に「品名・数量」とともに住所・氏名・捺印をすることが求められ、違反者は罰金とあります。
勿論、しばらくは守られていましたが、当然の如く行われなくなったようです。

5.広告宣伝の時代・・・医薬品広告との比較
江戸時代の「仙女香、美玄香」は、当時の浮世絵を利用してその名前の告知で広めました。
明治時代には大量の新聞広告で「仁丹」「大学目薬」「征露丸」(含嗽剤、目薬,腹薬)などの製品が大衆薬として広まりました。
白髪染製品の新聞広告に関しても、今まで製品ごとに提示してきましたが、戦前までの情報もありますので、機会があればまとめて報告、検討をしてみたいと思います。
・ネーミングについて
明治初期は「白髪赤毛そめ」「白髪染薬」などと一般名の「白髪染」を名乗るものがほとんどでした。
江戸時代の「美玄香」のような固有名を初めてつけたのが「千代ぬれ羽」です。
その名前の由来はマスコットキャラクターの「からす」から「(黒い)濡れ羽色が永く続くように」と名付けたと解釈しています。これ以降、白髪染ではこうしたネーミングが一般化しました。
ただ一社1ブランドの為、剤型を変えたものなどの製品を区別するのが大変でしたちなみに、白髪染で最も多いのが「〇〇 からす」 のようです。
「初からす」「二羽からす」「あけからす」「ぬれからす」「うばからす」「ラーベー」などがあります。
6.明治後期の国内事情
(1)一般市場
・国内市場の推移
江戸時代に活躍した「美玄香」(坂本屋)や白髪染の大坂屋は明治初期に染毛剤をやめ、他業種に転職。代わりに多くの化粧品、薬店が参入しました。「黒油」は「黒香油」として、お歯黒禁止を受け、あらたな受け皿としての白髪染の開発が進みました。
さらにヨーロッパから流入してきた「金属染毛剤」の模倣も進み、白髪染として何種類か製品化(国産化)されています。
白髪染に限らず、明治以降様々な分野に海外からの新しい製品が流入し国内産業に多大な影響をもたらしていました。その打開の方法として、化粧品小売団体からは「輸入品模倣制作奨励」といった提案がなされていました。
写真13 東京小間物化粧品商報 明治39年8月
・新旧交代
酸化染毛剤が登場してから、生産者側の様相は一変します。
それまでの、いわゆる「老舗の薬舗」に対し、新興勢力(異業種、未経験薬舗など)の参入が相次ぎ、そして一部が定着して次世代の白髪染を担います。
例えば、
・「君が代」の山吉商店は当初、「帽子類の製造」から始まりました。
・「るり羽」の山発はメリヤスなど繊維関係で始まり、「白髪染」の仲介が縁で「石井成功堂」を支援し、最終的に買収しています。
・「二羽からす、元禄」の水野商店は「千代ぬれ羽」を何とか模倣しようと、全くの未経験から事業をスタートしています。
こうして明治のこの時期は、白髪染における最初の変革期となりました。
・理美容業界の動向
明治末期はまだ美容室は始まったばかりで、従来から白髪染は主に理容店で行われていました。
理容店でも酸化染毛剤の「かぶれ」については認識していたようで、「施術者側の責任はない」とのスタンスであったようです。
大正11年、理髪衛生普及会「理髪法規と消毒」の中でも毒劇物法の対応については、慎重に行うよう注意喚起しているところを見ると、理容店でも事故例はあったように思えます。
実際、大正12年、大分県知事から衛生局長への問い合わせがあり、回答では理髪業者が染毛製剤を買い入れ客に施術し料金を受けることは問題ないとのことでした。
・海外輸出の開始
明治期、酸化染毛剤が登場するまで日本は白髪染の輸入国でした。それは横浜や神戸の税関の記録でも確認でき、輸入品は「金属染毛剤」として扱われています。
酸化染毛剤が開発されると逆に輸出国に代わります。朝鮮半島から中国、海外移民の拡大によりハワイ、アメリカ西海岸、南米などの日本人のいるところに進出していったようです。
(2)技術面の課題について
酸化染毛剤が登場してから、次の点が課題となりました。勿論すぐには解決できず、大正、昭和と時を重ね、戦後になって完成されたものもあります。それぞれの課題については時代ごとで検討していきますが、今回は全般的な問題点を提起します。
①品質の安定性
・製品の保存性
この頃から、酸化剤に「過酸化水素水」を使うため、その保存性が重要になります。
ガラス瓶で保存していたため、その形状や重量が検討の課題となってきます。
大正期には「粉末の酸化剤」も実用化され、粉末染毛剤の特許も登場します。

②使い方の簡便性
染毛剤の基本は
「塗って 洗って 乾かす」
ですが、江戸時代から続く「美玄香(黒油)」のような着色料が明治以降、現在もしっかりと製品分野を維持しています。
ただ、酸化染毛剤に着色料のような使い方を持ち込んだ「千代ぬれ羽」が問題を起こしたことは、やはり染料に対する安全性の知識不足が、その後の「かぶれ」問題の原因となったのでしょう。
③製品の安全性
「パラミン製剤」の製品が市場を席捲するにつれ、安全性を志向した製品の開発が求められます。国内には昔から「お歯黒式」と呼ばれる製品類がありますが、現在でも
一部が残っています。
更に、大正初めには欧州から「オイガトール」「アウレオール」のようなパラミン誘導体を使った製品も登場してきます。
昭和に入って国内でも「エガミ」「ベナン」「黒若」など、いわゆる「安全染毛剤」と呼ばれる製品群が登場してきます。



山発や朋友はこうした製品をもたないので、その危機感から戦後いち早く「研究体制」の確立に走ったようです。
このあたりに関しては、昭和編で詳しく解説したいと思います。
7.理美容の動向~洋髪美容師の登場(大正期)
海外で技術を習得した「美容師」が帰国し、美容院、学校などを設立します。
その代表的な人物は
・マリー・ルイーズ
・山野千枝子
「マルセルアイロン」によるウエーブの洋髪が日本の束髪にも持ち込まれました。
ウエーブのある髪も増えたため、日本髪の結髪師も徐々に扱うようになり、美容師との距離が徐々に近づいていきます。
このあたりの詳細については次回大正期で解説します。
8.終わりに
・一人の「技術者」の発想による「酸化染毛剤」の登場が、現在も続くヘアカラー時代の始まりとなりました。
・唯一の欠点である「安全性」の問題点が、戦前・戦後と続いています。
・今回で明治篇は終了しますが、報告残しの内容は随時解説していきます。
白髪染の調査・研究をしています。ガラス瓶の発掘はできませんが、古い資料の発掘には自信があります。
住まい:愛知県 性別:男 年齢:68歳 趣味:家庭菜園
