「もうちょっと詳しい白髪染の歴史」 第5回 明治時代の白髪染(その1)

1.はじめに

冒頭の写真は明治時代前期に存在した白髪染「白毛液(はくもうえき)の製品と説明書、新聞広告です。今残っている、この時代の唯一の製品です。

白毛液 製品
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白毛液 説明書
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さて前回は江戸の文化において 、知識の部分の展開をみてきましたが、今回から明治時代には具体的にどのような製品が登場してきたかを調べていきます。

先ずその前に、現在わかっている江戸時代の製品を紹介します。

2.江戸時代の白髪染について

江戸時代の白髪染としては、白粉「仙女香」の坂本氏が発売した「白髪染 美玄香」が有名ですが、以前の江戸編で紹介したように、当時の白髪染は以下の様かと推測しました。

(1)国産では2種類の白髪染が存在

白髪染 美玄香」は、黒油とも呼ばれ、化粧品を扱う小間物商が販売していました。

一方「白髪染くすり」は、薬を扱う薬種商が販売していました。

つまり、現代でいうところの「着色料」は化粧品店で、「染毛剤」は薬局でといった住みわけが、当時すでにあったのではと思われます。

ただ、これも厳密なものではないようで、「しらが染薬 美玄香」と表記しているものも見受けられます。

(2)海外からの白髪染も存在

幕末には国内に一定数の外国人もおり、また「和蘭陀伝来」と書かれた白髪染の広告もあることから、ヨーロッパからの輸入があったようです。この傾向は明治時代も続き、日本はしばらく染毛剤輸入国でした。

そして、明治の終わりごろ国内初の酸化染毛剤が登場すると、第一次大戦後の大正初期には、日本は染毛剤輸出国となりました。

その背景には、第一次大戦で化学大国のドイツが没落し、日本での化学工業が急速に発展したことによります。

以上より、江戸時代には少なくとも 3種類の白髪染 が存在したと思われます。

(3)江戸時代の白髪染資料について

以前も報告しましたように、1700年代の元禄期に、大坂屋川上藤兵衛が初めて染毛剤を発売したとの記述が残されています。また、幕末の徳島での引札について、もう少し詳しく調べてみました。

(a)資料1、「江戸買物独案内」における白髪染

この資料は1824年(文政七年)に出版された、江戸の様々な店の広告を紹介したガイドブックのようなもので、そこに大坂屋川上藤兵衛の「志らがそ免ぐすり」が掲載されています。

志らがそ免ぐすり 原文 志らがそ免ぐすり 写し

「江戸買物独案内」より「志らがそ免ぐすり」(原文と写し)

概要 「若白髪や老年白髪に対して黒油を使って一時白髪を隠すが一夜で元に戻ってしまう。家伝の白髪赤毛染は一度染まれば元の髪色より黒く艶もでる。染めた髪の切口は黒く染まっている」といった記述がある。

(b)川上藤兵衛について

元禄(1700年頃)、川上藤兵衛正義が志らが染(白髪染)を創製し、江戸で発売。

また幕末の頃、川上藤兵衛正澄は諸国をめぐり、日本各地の珍しい眺めや風景を図入りで紹介した木版画、「諸国奇観」文政8年(1825)を著しました。

明治に入っても大坂屋の白髪染資料が見つかっています。藤兵衛は鞄の製造も手掛けていたようで、大正時代に入ると白髪染の販売はやめて、鞄製造販売だけになったようです。同様に「美玄香」の坂本氏も明治期には洋傘の製造販売にシフトしました。

(c)資料2,「志らがに付て黒うなる薬」

この資料は幕末の阿州(阿波・徳島)の小間物商「敦賀屋源兵衛」が出した引札で、天明の頃(1780年)のものと思われます。

志らがに付て黒うなる薬 原文 志らがに付て黒うなる薬 写し

「志らがに付て黒うなる薬」(原文と写し)

概要 「世の中に志らがそめぐすりと称して売るものあれど、この志らが染は三か月は色を保つ。十~廿日ごとに染めていれば志らがは美しい黒髪となる。近年まぎらわしい薬数多く出てきているので気を付けて買い求めてください」といった記述がある。

(d)「敦賀屋源兵衛」について

享保3年(1718年)徳島の地で小間物商を始めたのは、

初代  磯崎只右衛門

二代  磯崎兵左衛門

三代  磯崎喜兵衛

結局三代で小間物屋はなくなり、四代目源兵衛は伯父の敦賀屋紋兵衛へ奉公に出ます。

天明四年(1784年)に分家となり、敦賀屋源兵衛として小間物商を再興します。

初代から66年後のことで、その後急速に店業拡大し繁栄します。

源兵衛は後に苗字を許され松家源兵衛となり、また五代目は実子総領喜代吉で

文化十一年(1814年)源右衛と改名しました。

(資料:徳島市史3巻より)

 (e)製品について

「使い方はすじたて(櫛)で髪を少しづつすくいあげて、地肌をよごさないように刷毛で付ける。あまり多くつけず、髪の多い人は多くはけてよく梳る。

10~20日に一度使えば志らがはことごとく美しい艶の髪となる」とあり具体的な成分内容はわかりませんが、一時的な着色料ではないようです。

(f)江戸時代の白髪染、まとめ

今回の2件の引札から、江戸末期にかけての白髪染の様子が見て取れます。

・黒油の評価が残されていること。

黒油は手軽さゆえに、広く使われていたことは知られていますが、やはりしっかり染めたいとの要望もあるようです。

・類似商品が多数販売されていること。

いつの世も、二番手、三番手の類似品が登場するようです。処方が単純なため簡単にまねできることが原因でしょうか。

・各地に白髪染の需要があること。

大坂屋は江戸、敦賀屋は阿波と国内流通の様子が窺われます。現在、全国の商家の資料を検索することも可能になってきていますので、白髪染の取引の様子がわかるようになるかと思います。(以前、広島の商家の資料は報告しましたが)

< コラム > 江戸時代の白髪染、その後

上記紹介したように、現在のところ江戸時代の製品はこの2点しか見つかっていません。今後さらに見つかるものと思いますが、これらのものが明治時代以降も生き続けていったのでしょうか。

(1)「美玄香」のような「黒油」と呼ばれた着色料は、明治になっても販売され、さらに携帯式やタンポ式など形を変え、現在のカラースプレーなどにつながっています。

(2)海外の製品も明治に入ってから多く輸入されています。

「ベーヤ」「ブラック」「ラクール」など海外製品の新聞広告が見受けられます。

ヤーべ

(3)鉛、銀、鉄を使った製品が主流となっていきます。

古くから文献資料などに登場する金属染毛剤ですが、ヨーロッパのほうが進んでいたようで、海外品の輸入から国内でも作るようになっていったものと思われます。明治の早い段階で製品化が行われたようです。

 

3.明治時代前期の白髪染め

明治時代の白髪染は、前期(~明治38年)と後期(明治38年~)に分けられます。

それは明治38年に国内で初の「酸化染毛剤 千代ぬれ羽」が登場したことによります。

では、前期はどのようであったかというと、以前から報告している通り、 「金属染毛剤の時代」  でありました。

ここでは実際にどのような製品があったか、更に「なぜ酸化染毛剤が登場したのか」について解説します。

(1)大坂屋 川上藤兵衛の白髪染について

明治に入ってからも「川上藤兵衛」の白髪染に関する資料が何点か見つかっています。

それらは「引札」や「広告」、更には「使用説明書」もあり、どの様な金属を使用していたかがわかる貴重な資料です。

(a)明治9年(1876年)読売新聞広告

名方不老 しらが染粉
名方不老 しらが染粉

 概要 明治9年の新聞広告では、美玄香(黒油)については「世上に黒油を以て一旦白髪の愁を隠さんとすれど一夜にて落失日々に染まるもいと苦敷事也殊に風呂にて解炎天に流れて顔中又は衣服を汚す」と、染まりや汚れ落ちの問題点を指摘しています。

また「逆上性の人頭の痒なく・・・」とあるように、白髪染での地肌の影響もすでに認知されていたようです。

 やはり、油に顔料を分散しただけのものではたれ落ちは避けられないようです。

勿論、そうした点の改良として、綿にしみこませた「タンポ」式にしたり、携帯用の金属ケースにいれた製品が見つかっています。

(b)明治10年以前 引札 名方不老 しらが染粉(埼玉県立文書館)

「しらが染粉」(原文)
「しらが染粉」(原文)

 概要 埼玉県立文書館所蔵の「引札 名方不老 しらが染粉」は、引札ではなく製品の使用説明書でした。使用方法から見ると、この製品はのちに昭和になってから登場した「烏翆膏(うすいこう)」と同じ製品、つまりお歯黒式タイプのものと思われます。

黒い粉末を(お茶の)煮出し汁で溶き、塩を一つまみいれ加熱してから10時間かけて染め上げる。

これは結論から言うと、「明治時代はお歯黒で10時間かけて染めていた」と色々なブログやHPでいわれていたものの、元となった製品ではないかと思われます。

実際のところ、お歯黒で染めているわけではなく、正しくは「鉄塩、タンニン」を使った白髪染ということでしょうか。後で述べる「鉛、銀」などを使った製品と比べ、手間や  時間がかかるこのタイプは、ほどなく姿を消します。そして安全性の問題を背景に、昭和の初め頃再登場します。

なおこの説明書を「明治10年頃」としましたが、製造本舗の住所は「東京日本橋通三丁目」となっています。

江戸から東京(府)になったのが明治元年。さらに東京市になったのが明治22年。

また日本橋の区表示は明治11年からです。

次の明治23年の住所は「日本橋区通三丁目」と区表示があります。

よってこの使用説明書は明治11年より前のものと推定しました。

(c)明治23年(1890年) 冊子広告

「東京買物独案内」より「志らが染粉」(原文)「東京買物独案内」より「志らが染粉」(写し)

「東京買物独案内」より「志らが染粉」(原文と写し)

概要

ここでいう「しらが染粉」とはどのようなものであったのでしょうか。

同じく広告文中には「此染粉の義は何やうの白髪赤毛にても一たび染るにしん(芯)より染り切口迄も黒く成」と書かれています。現在でも染まり具合を示すための毛髪断面図のような解説がなされています。

(d)明治41年 新聞広告「川上の志らが染」

概要 

「元禄年間より志らが染の開祖として・・・」と表示のある広告ですが、この製品は酸化染料を使用したものです。

(2)国内の起業家による白髪染

明治13~14年(1880~1881)にかけて、「白髪染」発売願が5件、東京府に申請されています。中には、使用成分を表示したものや絵入りのものなど具体的な内容がわかるもの、更に使用説明書も見つかっており貴重な資料となっています。

(a)矢田猪平  烏羽玉白髪染発売願 明治14年7月1日 

概要

鉛化合物を使った白髪染の発売願です。説明書にある通りドイツの特許を利用しているようです。

(a)矢田猪平について

東京神田区雉子町にて旅客宿泊業を営む。歌人佐佐木信綱の教え子の一人として名前、短歌が残る。文化人でありながら、何故白髪染の製造販売を思い立ったかは不明です。

烏羽玉使用説明書 「志良かそ免粉」

(原文と写し)、新聞広告

 (b)吉野恒次郎 白髪染発売願 明治14年5月4日

概要 品名 白髪染薬 

   成分 墨、油

 (c)大鐘立岱 白髪染粉発売願 明治13年8月9日

概要 品名 若緑

   成分 密陀僧(鉛)、唐土、石灰 

(d)浅野重僖 白髪染薬発売願 明治13年5月19日

概要 品名 白髪染 黒賛水(コクサンスイ)

   成分 没食子、鉄塩 

(e)森島伝蔵 白髪染薬発売願 明治13年5月3日

概要 品名 志らか染薬

   成分 墨、油

(3)その他の白髪染製品

明治前期に発売された白髪染製品の広告、製品分析結果が見つかっているものがありますので、ここで紹介します。これらの多くは前期で消滅しております。

(ア)安全しらが染 不変漆黒染毛液

発売元:伊藤泰山堂

剤 型:液体二剤式(硝酸銀、硫化アンモニウム)

 

(イ)山﨑林平製 改良白毛染

発売元:山崎帝国堂

剤 型:粉末一剤式(炭酸鉛、苛性ナトリウム)

(ウ)軽便安全 白毛赤毛染液

発売元:岡田商店

剤 型:液体二剤式(硫化カリウム、硝酸銀液)

(エ)しらが赤毛染 新ぬれ烏液

発売元:楽天堂薬房

剤 型:液体二剤式(硫化カリウム、鉛化合物)

(オ)白髪染粉

発売元:関いね

剤 型:粉末一剤式(タンニン酸、鉄化合物)

(カ)白毛液

発売元:十川保生堂

剤 型:液体一剤式

製品一覧表
製品一覧表

 

4.白粉と白髪染は同じもの? 酸化染毛剤登場の謎に迫る!

日本の白髪染の歴史の中で、一つの謎はなぜこの時期(明治38年)に「酸化染毛剤」が登場したのかという点です。

どのブログ、HPを見ても「お歯黒、10時間」「金属染毛剤」などの記述の後、明治の終わりごろ突然に「酸化染毛剤(千代ぬれ羽)」が登場します。

それまで10時間の染毛時間が2時間と短縮され、酸化染毛剤の時代となった、といったストーリーが語られていました。

しかし、千代ぬれ羽の使用説明書では、放置時間12時間(のちに6~7時間に変更)とあり、お歯黒式との優位性はありません。

そこで当時話題となっていたもう一つの化粧品に着目しました。

(1)白粉の動向

白粉は江戸時代以降も「炭酸鉛」を使った「鉛白粉」が主流でした。

鉛の毒性については以前から言われていましたが、明治20年(1887年)の明治天皇臨席での天覧歌舞伎事件で世間に広まり、明治33年(1900年)4月に、「有害性着色料取締規則」が改正され銅、水銀、鉛、錫など化粧品への使用が禁止されました。

ただ、白粉に使われる「鉛白」は、代替がないので当分の間化粧品への使用が認められました。

無鉛白粉は、明治37年(1904年)、「御園白粉」(胡蝶園)として製品化されましたが、正式に「鉛白」が禁止されたのは昭和9年(1934年)になってからでした。

(2)白粉と白髪染

明治時代前期には、化粧品である「白粉」は白く見せるもの、方や「白髪染」は黒く見せるもの。実はこの両者、効果は異なるが同じ成分を使っていることです。

明治以降の「白髪染粉」と呼ばれるものには「炭酸鉛」が使われていました。

白粉は代替品が定着する昭和までの猶予期間がありましたが、白髪染粉に使われている鉛も、禁止の方向となったようです。

ただ銀や鉄を用いた金属染毛剤製は、扱いやすさ、効果に問題があり、他の成分の検討が急務でした。

金属禁止で金属染毛剤の時代が終わり、「酸化染毛剤」が登場したと考えると、

この法改正が日本の染毛剤の一大転換点であったといえないでしょうか。

その後、明治38年と43年に新たな酸化染毛剤が発売されますが、それにかかわった二人の人物については、以前も報告しましたが、次回「もうちょっと詳しく」報告します。

(お詫び)(引札 志らが染粉 写し)が欠番になっていますが、まだ本文が読解出来ていませんので、次回掲載させていただきます。

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