1.はじめに


江戸から明治、女性の髪型いろいろ
明治の初めにいくつかの習俗(髪、お歯黒、眉、服装など)が、体制の改革と共に強制的に変更されました。
これまで本稿では「白髪染」に着目して調査してきましたが、明治時代以降における「白髪染」の役割を理解するために、前回に続いて関連する理美容分野について触れていきたいと思います。
(資料)東京風俗志 中 平出鏗二郎 富山房 明治34年
〇 明治時代初期の服制と髪型改革
幕末、アメリカに留学した侍が現地の好奇な目に耐え切れず断髪した話は前回報告しましたが、明治4年、国内初の女性留学生たちがアメリカに留学した際にも、現地の好奇な目に耐え切れず、洋服を買い求めたとの資料がありました。侍の「ちょんまげ」と女子の「着物」という取り合わせが面白く、調べてみると明治3年に海外留学の際の「非常並旅行服」規定と、明治4年の国内における官僚等の「服制改革内勅」服装規定、さらに一般人も対象の「断髪令」が制度としておりてきました。
男性の洋服化は役人や官吏、軍人などは早く進みましたが、地方での洋装化はなかなか進みませんでした。
〇 髪型が変われば仕事も変わる
外国人には、男の「ちょんまげ」は不評、女性の「日本髪」は好評とこれが影響してか、男性は断髪、女性は日本髪のまま(髪型は自由だが断髪は不可)となりました。
江戸時代の「髪結」は「理髪師」に(女性客にも対応)、技術も全く変わりました。
江戸時代の「女髪結」は「結髪師」と名は変わりますが、その技術は変わりませんでした。
理髪師も結髪師も技術の習得は昔ながらの「徒弟制度」が続いており、世の中の評価を変えるための体制や組織変更などが求められていきます。
欧米の洋髪を持ち込んだ「美容師」が登場するのは大正時代に入ってからとなります。
〇 髪型が変わらなかった女性の日本髪
明治18年に男性側から提示の「婦人束髪運動」が起こり、その後髪型の方向が変わっていきます。
結髪の問題点として、「不衛生(髪を洗わない)・不経済(頻繁に結い直す)・時間がかかる」などを挙げ、自分で手軽に結える、女学生にも合った「束髪」を勧めています。
2年ほどでこの運動は終了しますが、この時代女子師範学校の開校が相次いだこともあり、女学生などに束髪は根強く広がっていきます。ちなみに、明治4年女性初の留学生の中に、現行5000円札に描かれている「津田梅子」がおりました。
日清戦争(1894年)後の日本髪の復活もありましたが、大正期に欧米のウエーブ技術と共に「洋髪」が導入され広がっていきます。
〇 理髪に関する法整備
理髪業は届け出制から多数の理髪師が生まれ、その質の低下が問題になります。
明治33年、「理髪営業取締規則」を制定し、感染症など衛生上の問題と合わせて質の向上を図ります。
理髪営業とは剪髪、結髪を行うことと定義しており、結髪師も対象となります。
前回第7回において、昭和2年「理容術営業取締規則」と書きましたが、正しくは昭和10年ですので、ここで訂正いたします。
昭和10年「理容術営業取締規則」の前、昭和5年に「美容術営業取締規則」があり、そこでは
・届け出制から許可制に
・染毛、癖毛直し、美顔術が追加され
・資格試験制度
・理髪学校(大日本理髪学校、明治理髪学校)の開校
と次々と改定が行われたようです。
〇 新たな美容技術の導入として
当時欧米で盛んに広まっていた「美顔術」が国内に導入されます。一部の理美容院で施術が行われ、新たな美容の始まりとなりますが、一般にはそれほど広がってはいきませんでした。
〇 民間団体の活動が広がる
理容師の質の向上、徒弟制度からの脱却を目指した民間団体「大日本美髪会」では講習や、私立学校での教育、さらに資格制度の導入と様々な活動を行っていきました。
2.女髪結から結髪師へ
日本髪が残り、毎日結い直す客商売の商家、花柳街の芸妓の需要が拡大。


著名な結髪師・・・伊賀とら、桑島千代、関口文子
得意客は華族、政財界から花街の芸妓まで広く、店舗を構え、得意客へは
訪問して髪を結っていました。
女性の仕事としての「結髪師」は魅力的な反面、賤業とも見做されていたようで、修業という「徒弟制度」が相変わらず残っていました。そこで教育機関として民間団体・個人が、
1913年(大正2)に東京女子高等美髪学校(上述の著名な結髪師が発起人)
1913年(大正2)に東京婦人高等美髪学校(山崎晴弘・信子夫妻、文部省認可第一号)
1915年(大正4)に私立大阪美髪学校(山上クニ子)
などが設立・運営を始めました。

(資料) 銀座ハイカラ女性史 野口孝一 平凡社 2024年
<コラム> 染毛と洗髪について
明治時代の白髪染は、現在とは少し異なり「髪を洗う、染める、洗い流す、乾かす」といった工程が一般的でした。当時女性の日本髪は油脂で固めており、まずは十分な洗髪で油脂を洗い落とす必要がありました。
現在のように各家庭に給湯器もなく(一般への普及は1960年代)、染毛前後の洗髪は大変であったことが想像されます。
実際当時、給湯器が完備していたのは理容店と病院の二か所(煮沸殺菌)でした。
ですから理容店で洗髪や染毛する女性が多数いたのではと想像されます。

まだ美容院も十分でない時代ですから、家庭用の染毛剤の使用には理美容の協力がかなりあったようです。
「モダン化粧史」によれば、「染髪について当時の美容書のほとんどが白髪を染めることを中心に書かれ、まれに洋装する人の参考として金髪やトビ色の髪にする方法が記されています。しかし実際には黒々とした髪で洋装し、和風の洋髪を結っていました。」とあります。
横浜や神戸など外国人のいた地域の理容店では「明るい髪色」に染めることも行われていたのでしょうか。
また、「化粧のをしへ」では洗髪について書かれた中に、「近頃女学生に髪の赤いのが目立つのは、洗髪後に油を付けないためでは。」と指摘しています。
洗髪習慣の影響が「髪の明るさ」の原因となった事なのでしょうか、気になる内容です。
(資料)モダン化粧史:粧いの80年 ポーラ文化研究所 1986年(昭和61)
化粧のをしへ 東京化粧研究会 1908年(明治41)
3.婦人束髪運動について
〇 婦人束髪運動の背景
断髪令以後、混乱はありましたが男は「断髪」、女は「日本髪で髪型自由」となり職業も定着していきました。理髪店などが徐々に整うにつれて、女性の髪型についての問題が目についてきます。
明治19年、陸軍医師の渡辺鼎、経済記者の石川瑛作が主導したこの活動は、
日本髪の問題点は
(1)不衛生
髪油で固めていることもあり洗髪を行うことが少ない。そのため髪の汚れやふけなど衛生上問題が多いようです。
(2)不経済
こうして手間のかかる髪もかなりの頻度で結い直す必要がありその費用もかなり掛かります。
(3)不便
腕のいい結髪師の予約を取るのも大変だったようです。
こうした問題点を解決する「髪型」として、ひとりでできる「束髪」を提案しました。
〇 活動状況
当時できた女子師範学校の教員や女学生に受け入れられ広まりました。
しかし、明治20年頃の鹿鳴館時代の終焉、渡辺の留学で束髪運動は一旦下火になります。
更に日清戦争(明治27年)の影響で日本髪の復活があるものの、「束髪」は形を変化させながら
その後も残り、大正時代からの洋髪の受け入れにも大きな影響を及ぼしたようです。
例えば「イギリス結び」は丈夫で崩れにくく、働く女性や家庭の婦人に、また「まがれいと」は上品なため少女に受け入れられたようです。


(資料)束髪案内 渡辺 鼎 女学雑誌社 明治20年
男性が主導した「女性の近代化」の一例でしょうか。
<コラム> 明治時代の髪型と服飾について
明治初期には、天皇から公家、幕府側、新政府側など様々な階層、階級の人々がいました。式典において、階級に合わせての装束、衣裳などのしきたりがありました。それらを外見で明確に区別するのが髪型と服装でした。ですから、これをどのように統一するのかが当初の大問題であったようです。
本稿では髪型のみを取り扱いますが、服飾も関連するため興味がありましたら下記の資料をご覧ください。
(資料)洋服・散髪・脱刀 服制の明治維新 刑部芳則 講談社 2010年(平成22)
4.「美顔術」による美容の始まりと展開
頭髪とは異なりますが、明治以降の「美容」の発展に影響を与えたのが「美顔術」です。
美顔術とは、クリーム類で顔の汚れを取り清潔・清浄を保ち、マッサージによる血行促進、新陳代謝により脂肪分泌を整え、リラクゼーションにより神経を爽快にすることを目的とします。
欧州で習得した人、米国医師キャンブルーらに指導を受けた人などが国内で開業し広めていったようです。

〇美顔術を広めた人たち
北原十三男(1881-1964)は国内で医学を学び、欧州各国を視察、現地の美容学校で学び、帰国後、明治38年(注)に「東京美容院」設立し美顔術を始めます。
(注)北原美容のHPによれば、東京美容院の設立は明治34年とあるが、北原が1921年に設立した日本女子美容術学校の設立許認可届の履歴書には、1905年(明治38)とあるとのことです。

(資料)倉田研一 戦前期の学校における女髪結及び美容師の養成について
技術教育学の探求 第23号 2021年
理髪師であった芝山兼太郎(1873-1929)は明治38年、横浜で「パレス・トイレット・サロン理髪部」を開設。来店客の米国医師キャンブルーに直接美顔術の指導を受け、店で施術を始めました。

遠藤波津子(1862-1933)も同じキャンブルーに美顔術指導を受けた説と、大日本美髪会が主催した美顔術の講習会で直接芝山から学び、明治38年「理容館」(京橋区竹川町)を設立し施術を始めたとの説があります。
また「婚礼着付け」の草分けともいわれています。

しかしながら、美顔術は当時一般にはそれほど浸透せず、クリーム類などは基礎化粧品として一般向けに取り入れられ、むしろその後の化粧品産業の発展に寄与したようです。そして戦後「エステ」として定着、現在に至ります。
資料1:明治時代の美容書一覧

5.大日本美髪会とその後の展開
始まり:理髪師や結髪師の仕事が世の中に定着するが、技術格差、徒弟制度の厳しさ衛生面の無理解など この業界の問題を危惧したジャーナリストの太田重之助が、全国にわたる機関の設立、理容技術の体系化を目指して組織を結成しました。
活動:・教育体制の確立
・地方講習の実施
・理髪通信大学講座の開設
・理髪学会の設立
アーテスト、准アーテスト資格

・地方支部、海外支部の開設

・機関誌「美髪」の発行

・組織 会長:中御門男爵
顧問:北里柴三郎
講師:大場秀吉、篠原定吉、芝山兼太郎ら
明治41年には「大日本理髪学校」も立ち上げています。
先に紹介した結髪師や理美容師の方が設立した学校がこの当時いくつも設立されました。こうした流れは、大正・昭和では美容師の方を中心に広がります。

なお、関西にも理容民間団体「芸美会」(昭和2年設立)があり、現在も活動を続けています。
ところで、大正2年、大日本美髪会編の「化粧品及其製法」によれば当時の染毛剤として
・鉛製染毛剤(粉末)
・硝酸銀製染毛剤(液体)
の2種類を挙げ解説していますが、文末に
「諸君は成る可く白髪染を使用せざることを希望します」と書かれています。
どうやら大日本美髪会としては、白髪染、酸化染毛剤にあまり関わらないとのスタンスのようです。
ただ、当時すでに一般市場では酸化染毛剤が主流となっており、理容店でも原料の「パラミン」を購入してきて店内で調合し施術をする例も報告されていますので、現実には一般理容店も酸化染毛剤と広く関わっていくことになりました。
<コラム> 今どきの黒髪は

最近ネットに掲載された「芸妓さんが大量にエレベーターに乗った」姿の写真ですが、気が付いたのは、どうやら「黒髪」の方が少ないことです。おそらく多くの人は「地毛」で結っていると思われますから、このような日本髪の髪色になったわけでしょうか。
もちろん「地毛が赤い」との悩みは江戸時代から言われていましたが、実際に日本髪で見ると確かに迫力があります。こうした髪色を真っ黒に統一してきたのは「しらが染・赤毛染」でした。
ですから「日本髪=黒髪」と当たり前のように理解していました。
この写真の芸妓さんの「髪色」も「巷の茶髪、金髪」から見れば十分に「黒髪」だと思われますがいかがでしょうか。
まとめ
明治時代「髪」に関わった理容師、結髪師、そして「白髪染製造者」の活動を見てきました。そして明治38年に登場した「酸化染毛剤」が、現在もなお最も重要な基本技術となっています。
美容師の登場は大正期になってからですが、一般市場の白髪染は一層発展します。
次回は明治から大正期の白髪染の展開や、理美容界との関わりについて解説したいと思います。
白髪染の調査・研究をしています。ガラス瓶の発掘はできませんが、古い資料の発掘には自信があります。
住まい:愛知県 性別:男 年齢:68歳 趣味:家庭菜園
